COORDINATE X

A DROP

一滴

SPECIAL PROLOGUE · 読了目安20〜25分

本作には、児童への暴力、身体変容、銃器の描写が含まれます。

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最初に、俺は人間がごみ箱へ捨てられるところを見た。

その少しあとで、人間に似たものを食べた。

どちらも十四歳のときだった。

Yokoが捨てられた日は、雨が降っていた。

山を伝ってきた雨水が、古いアスファルトを黒く濡らしていた。バスもほとんど通らない道の突き当たりに、灰色のコンクリート造りの建物が一棟だけあった。

錆びた鉄製の遊具。

半分ほど崩れた塀。

その塀よりはましな正門。

門の脇には、市から発行された許可証が額に入れて掲げられていた。

児童保護施設。

定員十二名。

生活指導員一名。

医療支援対応可。

そこに書かれていたことのうち、事実に近かったのは定員くらいだった。

あの場所を管理していた人間は、Carlsonただ一人だった。

Carlsonは毎朝、夜が明ける前に事務室でコーヒーを淹れた。

ありふれた挽き豆だった。

紙のフィルターにゆっくり湯を注ぎ、褐色の液体がガラスポットへ溜まっていくのを眺めていた。

あの建物で漂う匂いの中で、コーヒーだけがまともだった。

砂糖は入れない。

左手でカップを持ち、右手で書類をめくる。

腰にはいつも拳銃を下げていた。

子供をトラックに乗せるときも。

食料の箱を運ぶときも。

浴室の前で人数を数えるときも。

革製ホルスターの縁は擦り切れ、銃のグリップがむき出しになっていた。

Carlsonが銃を抜くところを見た子供はいなかった。

それでも全員、あれが飾りではないと知っていた。

Carlsonが受け持つのは、外側だった。

役所の人間が来れば笑った。

支援者が訪ねてくれば、きれいな部屋だけを見せた。

病院には、健康な子供の記録だけを送った。

子供が消えれば、親族へ引き渡したと書いた。

戻ってきた子供が口をきけなくなっていれば、適応障害と書いた。

腕が動かなくなっていれば、先天性疾患と書いた。

熱が何日も下がらなければ、入所前から身体が弱かったことにした。

Carlsonは判を押し、あの場所を孤児院にした。

それがあいつの仕事だった。

内側は、別の存在の仕事だった。

俺たちはそれをThe Manと呼んでいた。

誰が最初にそう呼び始めたのかは知らない。

Carlsonに教えられた名前でもなかった。

別の名をつけるには人間に似すぎていて、人間と呼ぶには、あまりにも遠くへ行きすぎていた。

The Manは滅多に姿を見せなかった。

一週間、一度も現れないこともあった。

ひと月に三度も降りてくることもあった。

The Manが来る日は、子供たちのほうが先に気づいた。

Carlsonがコーヒーを半分残す。

拳銃の安全装置を確かめる。

食堂の扉を、いつもより早く施錠する。

そのあと、廊下の突き当たりに黒いものが立っていた。

The Manは背が高かった。

天井を突き抜けるほどではない。

そこまで単純なら、かえって理解しやすかった。

廊下の中に立っているのに、廊下の寸法に合っていなかった。

頭は天井に触れていない。

それでも見上げると、首だけがどこまでも続いているように見えた。

黒い外皮はスーツに似ていた。

襟もボタンも、はっきりとは見えない。

腕は身体の脇へまっすぐ垂れ、指先は膝より下まで届いていた。

顔は白かった。

卵の殻のように滑らかだった。

目もない。

鼻もない。

口もない。

それでも、見られていることだけはわかった。

The Manは子供を一人選んだ。

手を差し出した。

そして待った。

引きずってはいかなかった。

腕を捻り上げることもしなかった。

子供が自分からその手を取るまで、ただじっと立っていた。

拒む子供はいなかった。

拒んだ子供たちは、もういなかったからだ。

The Manと一緒に消えた子供は、戻らないか、戻ってきてもどこかが変わっていた。

Akiraは戻ってから眠らなくなった。

夜通し壁を見つめ、朝になると倒れた。

Mariは食べ物の名前を忘れた。

飯も、水も、自分の指も、同じ名前で呼んだ。

Keiは笑うたび、口の中から紙を素早くめくる音がした。

子供たちは最初、泣いた。

次に、隠れた。

やがて、食事のトレーを受け取るために列を作るようになった。

誰かが消えることは、もう特別な事件ではなかった。

山に冬が来るのと同じだった。

怖がっても来た。

憎んでも来た。

俺たちは、受け入れたふりをする方法を覚えた。

それができなかった子供は、長く持たなかった。

Yokoもその一人だった。

Yokoと俺が親しかったかと聞かれれば、微妙なところだった。

あの頃の俺は、誰にも情を持たないようにしていた。

名前を長く覚えていると、消えたあとが面倒だったからだ。

それでもYokoは、時々俺の隣に座った。

余ったパンをくれた。

返しても、次の日にはまたくれた。

緊張すると、右の袖口を指に巻きつける癖があった。

左の眉尻には、短い傷があった。

その日、The ManはYokoと俺を連れていった。

Yokoが先だった。

俺はその次だった。

孤児院の裏手、山の斜面には古い屋敷が隠れていた。

正門からは見えなかった。

洗濯室の裏にある鍵のかかった扉を抜け、雨に濡れた山道を少し下る。

木々の間に、黒い煉瓦造りの家が現れた。

窓の半分は板で塞がれていた。

玄関にも廊下にも、埃はなかった。

古い木材からはワックスの匂いがした。

両側の壁には扉が並び、取っ手の上には名前の代わりに番号が付いていた。

The ManはYokoの手を取り、地下へ降りた。

俺は二歩後ろをついていった。

階段は、屋敷の深さを超えていつまでも続いた。

階数表示はなかった。

The Manが扉を開けると、そこが何階だろうと部屋があった。

Yokoが入った部屋には、机が一つ、透明な水槽が一つ、金属製のごみ箱が一つあった。

机の上には、新しいトイレットペーパーが一巻置かれていた。

普通に見えた。

白かった。

指でつまめば簡単に破れそうなほど薄かった。

The ManはYokoにそれを持たせた。

Yokoの手は震えていた。

水槽の上へ運ぼうとして、落とした。

ロールが床に当たった。

半回転。

二回転。

三回転。

白い紙がほどけ、湿ったコンクリートの床に触れた。

水をこぼしたわけでもないのに、床が抉れた。

紙が触れたところから、コンクリートが色を失っていった。

粉になったわけではない。

溶けて流れたわけでもない。

床の硬さそのものが、紙へ移っていった。

薄い紙の上に、灰色のコンクリートの質感が押し込まれていく。

細かなひび。

砂粒。

靴底に削られた跡まで見えた。

Yokoは慌ててロールを拾おうとした。

The Manの腕が裂けた。

手首の内側から、黒い触手が一本伸びた。

その先端が、紙芯の穴へ入った。

ぴったりだった。

The Manが触手を回した。

床にほどけた紙が、勢いよく巻き戻された。

同時に、反対側から新しい紙が広がった。

Yokoは後ずさった。

白い紙が、彼女の腕に触れた。

濡れた音がした。

Yokoは悲鳴を上げられなかった。

腕の表面が水のように崩れ、紙へ張りついた。

肉も、服も、骨も、別々にはならなかった。

人間の色と形が、そのまま薄い紙の上へ押し潰されていった。

The Manはさらに触手を回した。

白い紙が、Yokoの胸と顔を通り過ぎた。

一枚巻き取られるたびに、Yokoは小さくなった。

右の袖が紙に埋まった。

左の眉の傷が、細い線になって残った。

最後には、片方の足先だけが残った。

紙が一度かすめた。

それも消えた。

ロールは、ほとんど元の大きさに戻った。

少し重くなっただけだった。

表面には、濡れた髪が一本。

爪の白い半月。

瞳に見える黒い染みが埋まっていた。

紙はもう湿っていなかった。

硬くなった表面を触手が叩くと、薄いプラスチックのような音がした。

The Manはロールを抜き取った。

金属製のごみ箱の蓋を開けた。

そして捨てた。

ごとん。

人間一人が消えたにしては、軽い音だった。

俺はすぐ隣に立っていた。

息ができなかった。

逃げることもできなかった。

The Manの白い顔が、俺のほうを向いた。

何もない顔だった。

その奥に何があるのか、知りたいと思った。

恐怖と同時に、そんな考えが浮かんだ。

どうしてYokoだったのか。

どうしてトイレットペーパーだったのか。

紙の中に入ったYokoは、まだYokoなのか。

ごみ箱を開ければ、もう一度取り出せるのか。

疑問が生まれていること自体が、恐怖よりも気持ち悪かった。

The Manはしばらく俺を見つめていた。

あの日、俺は死ぬと思った。

だがThe Manは、俺の手を取らなかった。

ほんの少し首を傾け、そのまま部屋を出ていった。

夕食のとき、CarlsonはYokoの椅子を片づけた。

事務室へ戻り、冷めたコーヒーを飲んだ。

書類には、親族へ引き渡しと書いた。

あの日から、俺はThe Manを憎んだ。

怖がることと、憎むことは違う。

怖ければ目を逸らす。

憎ければ見続ける。

The Manが現れるたび、俺は目を逸らさなかった。

何もない顔の奥に何があるのか、知りたかった。

Rinは俺より先に孤児院へ来ていた。

十一歳のときだった。

俺が来たのは十二歳だった。

二人が十四歳になるまでに、一緒にいた子供の半分以上が入れ替わった。

Rinと俺は、古株の部類に入っていた。

Rinは白血病だった。

Carlsonの書類には、先天性疾患と書かれていた。

Rinは、三度目の実験まではそんな病気ではなかったと言っていた。

階段を一階分上がるだけで息を整えた。

冬になると指先が青くなった。

Carlsonが配る薬を飲むと、半日ほど手が震えた。

だからといって、弱い奴ではなかった。

力がないだけだった。

Rinは変なものが好きだった。

扉に鍵がかかっていれば開けようとした。

数字が合わなければ、理由を探した。

Carlsonが倉庫の南京錠を替えると、その日のうちに鍵の刻みの数を突き止めた。

ある日、食事の途中でいきなり言った。

「消えた奴より、戻ってきた奴のほうが変だと思わない?」

俺はスープを飲んだ。

「どっちも変だろ」

「消えた奴は答えじゃん」

「何の答えだよ」

「いなくなったっていう答え」

「戻ってきた奴は」

「問題が残る」

Rinは何でもないように言った。

それからパンをスープに浸した。

外から見れば、間抜けな奴だった。

身体に合わない大きなスリッパを引きずって歩き、自分の咳の音に自分で驚くこともあった。

Carlsonが真後ろにいるのに、スプーンで南京錠を開ける真似をして、手の甲を叩かれたことがある。

Rinは叩かれた手を振りながら言った。

「もう少しだったのに」

鍵穴には、スプーンの先すら入らなかった。

だが目を見ればわかった。

Rinは、まともなふりをしていた。

あいつの目には、恐怖より先に好奇心が満ちた。

すべての謎には答えがあると信じていた。

答えへ辿り着く過程のほうが、生き残ることより面白いと思っている顔だった。

狂っていた。

誰も知らなかった。

俺だけは知っていた。

Rinは実験室へ連れていかれるときも、怖がるふりをしていた。

The Manが身体を調べ、腕に管を挿し、聞き取れない文章を読み上げるあいだ、Rinは半分だけ目を閉じていた。

Carlsonは薬が効いたと思った。

The Manは反応低下と記録した。

Rinは眠ったふりをして、本を読んでいた。

実験室の壁には、古い本が並んでいた。

人間の皮に見える表紙。

文字が動くページ。

書かれた文章を消すと、別の文章が浮かぶ紙。

Rinは顔を上げず、開かれているページを暗記した。

上下が逆の文章も読んだ。

ガラス管に映った文字も覚えた。

実験が終わると、俺に断片だけを漏らした。

「名前って、呼ぶんじゃなくて指定するらしいよ」

「誰が」

「名前のあるものが」

「また意味わかんねえこと言ってるな」

「名前のないものだって、一つくらい欲しいんだよ」

そういう話だった。

冗談に聞こえるのに、捨ててはいけない話。

Rinはいつも、肝心なことほど屑みたいに放ってよこした。

山道を下った先にある別棟の実験施設。

その地下二階、三番目の部屋にJuicy Machineがあった。

子供たちがつけた名前だった。

俺は見たことがなかった。

Rinは何度も見ていた。

大きさは普通の自動販売機と同じくらいだと言った。

古びた金属の筐体。

正面には飲み物の写真が貼られ、その下に番号と小さなランプが付いている。

硬貨を入れ、番号を押せば、写真の飲み物が出てくる。

コーヒーならコーヒー。

果物のジュースなら果物のジュース。

そこまでは、古い自動販売機と変わらなかった。

妙なのは、排出口の上にQWERTY配列のキーボードが付いていることだった。

欲しいものを文字で入力してEnterを押せば、それを液体にして出すという噂だった。

カップは自分で用意しなければならない。

機械からは出てこない。

受け止められなかった液体は、排出口の下にある黒い穴へ落ちて消える。

途中でカップをどけても、機械は止まらない。

どんな硬貨でも使えるわけではなかった。

片面に10¢。

反対側には、摩耗して形もわからなくなった象形文字のような記号。

そんな古い硬貨だけを受けつけた。

一日に一度。

ブドウと入力すれば、ブドウジュース。

ガソリンと入力すれば、ガソリン。

睡眠と入力すれば、飲んだ人間を眠らせる透明な液体。

噂の内容は、そのたびに変わった。

失敗したときの話だけは同じだった。

条件に合わない要求を入力すると、飲み物の写真の横にある緑のランプが、一瞬だけ赤く変わる。

機械の奥で短い振動音が鳴る。

筐体は動かない。

液体も出ない。

入れた硬貨も戻ってこない。

その日一度きりの機会も、そこで消える。

「それで何を出すんだ」

俺が聞くと、Rinはしばらく答えなかった。

「答え」

「答えって、どんな味だよ」

「だから確かめるんだろ」

「飲んで死んだら」

「答えは出る」

Rinは笑った。

俺は笑わなかった。

「あの機械の後ろに、何かいる」

「壁だろ」

「そういう意味じゃなくて」

Rinの目が細くなった。

「出てこないものが多すぎる」

「壊れてるんじゃないか」

「壊れた機械に基準はないよ」

Rinはパンの端を爪で押した。

「あれは選んで拒絶してる」

Rinは、Juicy Machineが物質を作る機械ではないと考えていた。

要求を判定する何か。

言葉と、所有者と、代価を結びつける何か。

要求した人間に、その代価を払えるかどうか確認する窓口。

俺には全部はわからなかった。

それでもRinを信じた。

ほかの誰にも、そんなことはしなかった。

実験の前夜、Rinは俺のベッドの下に座っていた。

子供たちは全員、眠ったふりをしていた。

遠く離れたCarlsonの事務室から、ラジオが小さく聞こえていた。

Rinが言った。

「明日、僕をちゃんと見てて」

「見てるだろ」

「最後まで」

俺は身体を起こした。

Rinは普段から変なことを言った。

だが何かを頼むことはなかった。

食べ物を分けてくれとも言わなかった。

実験室へ一緒に来てくれとも言わなかった。

殴られて戻ってきた日でさえ、薬をくれと言ったことはなかった。

そんなRinが、初めて俺に何かを頼んだ。

言葉より、目のほうをよく覚えている。

怯えてはいなかった。

どこまで行くか、もう決めている人間の目だった。

「明日、何がある」

「順番が来た」

それだけで充分だった。

The Manのことだ。

Rinはポケットからスプーンを一本取り出した。

丸い先端は切り落とされていた。

残った柄の先は、長い時間をかけて削られ、歪な鍵の形になっていた。

「実験棟の倉庫、裏口」

俺の手に握らせた。

「二回回して、上へ持ち上げる」

「これで開くのか」

「昨日は開いた」

「昨日?」

Rinは答えなかった。

俺はスプーンの鍵を、ベッド脇の通気口へ隠した。

するとRinが言った。

「The Manの野郎が死んだら、残ったものを食べて」

「何を」

「残ったもの」

「食わない」

「わかってる」

「お前、本当に狂ってるのか」

「それもわかってる」

Rinは毛布の端から出た糸を、指に巻きつけてはほどいた。

「でも、食べないと駄目なんだ」

「なんで」

「お前のものだから」

「ちゃんと説明しろ」

「僕が知ってるのは、そこまで」

その夜も、説明はなかった。

翌日、午後七時になる少し前。

Carlsonは食堂へ向かった。

毎日同じ時間に夕食を取った。

食事中も拳銃は腰に下げていたが、孤児院の裏手までは確認しなかった。

夕食の時間だけは、The Manも邪魔をしないと思っていたらしい。

The ManはRinを連れ、孤児院の外へ出た。

Juicy Machineがあるのは、孤児院の地下ではなかった。

山道を下った場所に建つ、別棟の実験施設だった。

外から見れば、倉庫と大して変わらない建物だった。

二人が見えなくなるまで待った。

通気口に隠したスプーンの鍵を取り出した。

食堂から、皿とスプーンが触れ合う音が聞こえた。

Carlsonは夕食を食べていた。

俺は塀を回り、実験棟の裏へ走った。

倉庫側の裏口には、小さな鍵穴があった。

スプーンの先を差し込む。

二回回す。

上へ持ち上げる。

内側で掛け金がずれた。

Rinは狂っていたが、滅多に間違えなかった。

扉を開けて中へ入った。

倉庫には空の薬品箱と、錆びた運搬台が積まれていた。

奥の階段は地下へ続いていた。

階段の横には古い貨物用エレベーターがあり、階数表示だけが消えたまま停止していた。

足音を殺して降りた。

地下一階。

さらに一階。

地下二階。

三番目の部屋の近くに、古い管理用通路があった。

壁の中へ入り、身体を縮める。

金属格子の向こう、少し開いた扉の隙間から室内が見えた。

俺はそこからRinを見た。

助けるためだったのかはわからない。

Rinが初めて俺に頼んだからだった。

最後まで見ていろと言ったからだった。

前夜の目が、頭から離れなかったからだった。

Juicy Machineは、Rinの話より古かった。

それでいて、Rinの話から想像していたよりずっと原形を保っていた。

大きさは普通の自動販売機ほどだった。

くすんだ黒い外装は、ところどころ酸化していた。

角と前面の扉は金庫のように分厚く、それほど古いのに、歪みも隙間もなかった。

上部には飲み物の写真が並んでいた。

コーヒー。

赤いフルーツジュース。

色褪せた炭酸飲料。

写真は白い照明にぼんやり照らされ、その右側にはQWERTY配列のキーボードが付いていた。

キーは分厚く、文字は半分ほど擦れていた。

キーボードの上には、Juicy Machineという文字が安っぽい筆記体で曲がっていた。

上品ぶった字体だった。

機械そのものより、それが気に障った。

排出口の下には、カップ一つを置けるだけの空間があった。

受け皿の中央には、深さのわからない黒い穴が開いていた。

周囲には、乾いた飲み物の跡一つなかった。

室内は実験室というより、古い書斎に近かった。

壁には本棚が並び、本の間にガラス管や金属器具が挟まっていた。

床には円形の文様が刻まれていた。

The ManはJuicy Machineのそばには立っていなかった。

部屋の反対側に置かれた、古風な椅子へ座っていた。

黒い木で作られた幅広の椅子だった。

背もたれが高すぎて、The Manの長い身体さえ小さく見えた。

脚を組んでいた。

片手に分厚い本を持っていた。

読んでいるように見えたが、白い顔には目がない。

Rinは一人でJuicy Machineの前に立っていた。

排出口の下には、小さなグラスが置かれていた。

The Manが用意したものだった。

Juicy Machineの脇の棚には、古い硬貨が何枚か置かれていた。

片面に10¢。

反対側には、摩耗した記号。

The Manは本から顔を上げないまま言った。

「入れろ」

Rinが硬貨を一枚取り、投入口へ入れた。

機械の奥で硬貨が転がる音がした。

ちゃりん。

飲み物の写真の横に、緑のランプが灯った。

The Manはページを一枚めくった。

「A SIP OF MY SOUL.」

Rinの手がQWERTYキーボードの上へ上がった。

「そのまま入力しろ」

文中のMYは、命令したThe Manを指していなかった。

キーボードの前に立つRin自身を指していた。

Rinは自分の手で、自分の魂を一口分注文しなければならなかった。

本当に機械から出てくるかはわからない。

液体として出てくれば、グラスで受け、The Manへ渡す。

The Manは本を読んでいた。

いや。

読むふりをして、Rinを見ていた。

目がなくてもわかった。

Rinの肩が震えた。

指先が、キーの上でかすかに揺れていた。

俺は金属格子を握る手に力を込めた。

Rinより、俺の心臓のほうが大きく鳴っている気がした。

The Manがページをめくった。

Rinの手が止まった。

震えがあまりに突然消えたので、かえって不自然だった。

Rinが顔を上げた。

いつもの間抜けな顔ではなかった。

The Manが、ページをめくる手を止めた。

Rinの指が先に動いた。

Y.

分厚いキーが一度引っかかり、沈んだ。

機械の奥で金属のピンが移動した。

かちり。

The Manの白い顔が、本の上から持ち上がった。

O.

二つ目のキーが沈んだ。

さらに奥で、歯車が一目盛り回った。

The Manが本を閉じた。

本は椅子の肘掛けを滑った。

背中の後ろで黒い腕が裂け、Rinへ伸びた。

U.

Rinの小指がEnterキーを叩いた。

ごん。

次の瞬間、The Manは椅子から消えていた。

黒い触手の先が、Rinの喉元まで迫っていた。

Juicy Machineの内部で、低く重い振動音が鳴った。

筐体は動かなかった。

分厚い外装の内側でだけ、巨大な装置が回転する音がした。

金属部品が次々に噛み合う。

閉じた容器の中で、何かを無理やり搾り出しているような圧力音が続いた。

触手の先がRinの皮膚へ触れる直前。

音が止んだ。

排出口の先に、黒いものが生まれた。

グラスは真下にあった。

普通の液体なら、その中へ落ちるはずだった。

黒い一滴は、光を反射しなかった。

影を丸く握り潰し、排出口の先へ吊るしたように見えた。

黒い一滴は、排出口の内側へ一度跳ねた。

もう一度。

そのあとグラスを避け、空中へ弾け飛んだ。

側面の返却口から硬貨が吐き出された。

ちゃりん。

黒い一滴が、Rinの右足の横へ落ちた。

ぽたり。

最初に消えたのは、床の色だった。

灰色のコンクリートへ黒が広がった。

塗られているのではなかった。

黒い面に触れた床が、奥行きを失った。

本棚を支えていた壁が消えた。

天井の照明がなくなった。

扉と床と壁の境目がほどけた。

固定された構造物だけが、現実の背景から抜け落ちていった。

だがRinは残っていた。

The Manも残っていた。

Juicy Machineも、グラスも、床へ落ちた本も、移動式の金属器具も、そのままだった。

俺が隠れていた管理通路の壁が消えた。

手で掴んでいた金属格子は、固定される壁を失い、俺の手にぶら下がった。

飲み込まれたのは、俺たちではなかった。

俺たちを囲んでいた部屋だった。

コンクリートと壁紙と天井の裏側から、さらに深い黒い空間が現れた。

部屋は崩れなかった。

一層、剥がされた。

地下二階の三番目の部屋にいた人間と、そこに置かれていた物だけが、そのまま別の場所の上へ広げられた。

床のような黒い面が、遠くまで続いていた。

天井はなかった。

さっきまで本棚のあった場所の向こうに、寸法の測れない構造物が歪んだ角度で立っていた。

すぐ近くに見えた。

同時に、果てしなく遠くにも見えた。

風はなかった。

それでもRinの髪は、一方へ流れた。

Juicy Machineは黒い空間の中央に残っていた。

消えた飲み物の写真。

古い外装。

安っぽい筆記体。

その後ろに、誰かが座っていた。

最初からそこにいたように。

姿勢はゆるく崩れていた。

片腕を椅子の背へかけていた。

顔と服の境目は、よく見えなかった。

こちらを向いていないのに、俺とRinとThe Manを同時に見ている気がした。

Rinが、息のような声で名前を言った。

「Curious」

名を呼ばれたものが顔を上げた。

「僕?」

声は軽かった。

宛先を間違えた荷物を確認するような調子だった。

The Manは、Rinへ伸ばしていた腕を止めた。

ほんの一瞬だった。

開いた空間と、Juicy Machineの後ろにいる存在を同時に把握した。

白い顔が一度だけ、俺のいる方向へ向いた。

俺がついてきたことを、いつから知っていたのかはわからなかった。

The ManはCuriousへ向き直った。

もうRinは最優先ではなかった。

The Manの腕が四つに裂けた。

黒い刃が床を打った。

長い身体が前へ飛び出した。

一瞬前までRinの前にいた形が、Juicy Machineを越え、Curiousの首元まで届いた。

速かった。

一本の刃がCuriousの顔をかすめた。

黒い表面に細い切れ目ができた。

そこから黒い液体が一滴流れた。

Curiousが笑った。

「最初に僕を狙った。そこまでは正解」

空中が滲んだ。

手が現れたと思った。

だが手を見た記憶はなかった。

五本の長い痕跡が、The Manの両腕、両脚、首を同時に掴んだ。

The Manは身体を捻った。

触手が黒い床を裂き、刃が空を切った。

一合だった。

その一度で終わった。

空中の痕跡が内側へすぼまった。

The Manの長い腕が折り畳まれた。

脚が腰へ向かって曲がった。

黒い外皮と白い顔が、身体の中心へ押し込まれた。

骨の折れる音は、一度には鳴らなかった。

ぼき。

ぼきぼき。

濡れた紙を何枚も重ねて握り潰すような音が続いた。

人間より大きかった形が、旅行鞄ほどになった。

次に、頭ほどになった。

最後には、拳より少し大きな肉塊だけが残った。

Curiousが、指先から何かを払うように空気を動かした。

肉塊が床へ投げ出された。

ごとん。

Yokoがごみ箱へ捨てられたときより、軽い音だった。

俺は手に残っていた金属格子を蹴り捨てた。

黒い空間へ身体を投げた。

高さは腕一本分ほどしかなかったのに、床へ着くまで異様に時間がかかった。

膝が黒い面にぶつかった。

Rinが俺を見た。

俺は床の肉塊を見た。

The Man。

The Manの野郎が死んだら、残ったものを食べて。

「狂ってやがる」

誰に言ったのかはわからなかった。

Rinか。

The Manか。

自分か。

肉塊はまだ動いていた。

表面から細い黒い糸が出かけ、また肉の中へ引っ込んだ。

俺はそれを持ち上げた。

重かった。

拳ほどの大きさなのに、人間一人を丸ごと持っているようだった。

最初は匂いがなかった。

口元へ近づけると、匂いが生まれた。

濡れた布。

古い血。

Yokoが消えた部屋のコンクリート。

Carlsonの冷めたコーヒー。

吐きそうになった。

「早く」

Rinが言った。

あいつはCuriousを見ていた。

Curiousは俺を見ていた。

「ほかに方法はないのか」

Rinは首を横に振った。

「知らない」

「知らないのに食えって言ったのか」

「うん」

肉塊が手の中で一度跳ねた。

Rinの顔は真っ白だった。

あいつも、このあと何が起こるのか知らなかった。

それでも俺を見て、頷いた。

Curiousはすぐ目の前に座っていた。その瞬間、俺が掴めるものは、Rinが前夜に残した言葉だけだった。

俺は肉塊へ噛みついた。

表面はゴムのように耐えた。

さらに歯を食い込ませると、薄い皮膜が破れた。

血の代わりに、冷たい糸が溢れた。

歯茎へ巻きついた。

舌の下へ入った。

上顎と頬の内側へ張りついた。

吐き出そうとした。

肉塊が、口の内側へしがみついた。

食べる行為ではなかった。

互いの中へ入り込もうとする行為だった。

顎へ力を込めた。

一度。

硬いものが伸びた。

二度。

糸が一本切れた。

肉塊が喉へ滑った。

吐き気が込み上げた。

黒い糸が喉の内側へ引っかかり、落ちていかなかった。

指を口へ突っ込み、引きずり出そうとした。

糸は指へ絡まり、また奥へ這い戻った。

そいつも俺を食べていた。

歯の間に残った塊を、もう一度噛んだ。

三度目に顎を閉じたとき、硬い部分が切れた。

冷たい残骸を飲み込んだ。

胸の内側で、何かが開いた。

俺より先に、影が立ち上がった。

俺はまだ膝をついていた。

右手を動かそうとすると、左肩の後ろで指が動く感覚がした。

息を吸った。

肺が一拍遅れて膨らんだ。

身体の内側にいる別のものが、俺の動きを真似し始めた。

最初は下手に。

少しすると、もっと正確に。

Curiousは椅子の背へ身体を預けた。

「二つなら見たことがある。三つは初めてだ」

Rinは何も言わなかった。

「一つは呼んだ」

CuriousがRinを指した。

「一つは襲ってきた」

床に残った黒い染みを指した。

「一つは食べた」

今度は俺を見た。

「面白い」

声は明るかった。

それが余計に気味が悪かった。

そのあと、Curiousは何も言わなかった。

Juicy Machineの表示窓に数字が浮かんだ。

60:00

数字が減り始めた。

最初の十分で、俺は三度吐いた。

唾液と一緒に黒い糸が床へ流れた。

糸は黒い面の上でしばらく蠢き、向きを変え、俺の手首を這い上がった。

引き剥がそうとした。

糸は皮膚の下へ入った。

影はもう、俺の動きを待たなかった。

俺が顔を上げる前にCuriousを見た。

俺が手をつく前に、黒い床を押した。

Rinが一歩近づき、止まった。

俺の影が、あいつの足首へ伸びたからだ。

「来るな」

俺が言った。

声が二重に聞こえた。

一つは口から出た。

もう一つは少し遅れて、首の後ろからついてきた。

Rinは俺の隣へ座った。

手が触れないだけの距離を残した。

残り時間が減っていった。

43:12

Rinが咳をした。

手のひらに少し血がついた。

ズボンに擦りつけて拭いた。

Curiousは見ているだけだった。

質問しなかった。

なぜ自分を呼んだのか。

なぜ俺がThe Manを食べたのか。

なぜRinがまだ逃げようとしないのか。

もう答えまで見えているようだった。

27:40

俺の右手は、膝の上にあった。

だが指先の感覚は、床を這っていた。

目を閉じると、部屋にはない腕や脚の位置がわかった。

背中の後ろには、長い何かが折り畳まれていた。

喉の奥には、顔のない頭が一ついて、俺の視界を借りて周囲を見ていた。

俺は歯を食いしばった。

歯の隙間で、黒いものが震えた。

RinはずっとJuicy Machineの後ろを見ていた。

黒い空間の遠くに立つ構造物。

その間を通り過ぎる形。

本の中で読んだ文章が、現実として続いている場所。

怖がっていた。

同時に、楽しんでもいた。

08:03

「自分が何を呼んだのか、わかってるのか」

俺が聞いた。

Rinはしばらく答えなかった。

「知らない」

「名前は知ってたじゃないか」

「名前だけ」

「そっちのほうが危ないだろ」

Rinは口元の血を拭った。

「だから確かめるんだろ」

狂っていた。

最後まで。

表示窓の数字が、最後まで減った。

00:01

00:00

Curiousが片手を上げた。

黒い空間の一角に、長方形の光が生まれた。

実験棟地下二階、三番目の部屋の扉だった。

扉の向こうには、灰色の壁と蛍光灯が見えた。

「二人のうち、一人だけ生かしてあげる」

Curiousが言った。

「早い者勝ち」

少し考えるような顔をした。

「ああ。もう一度会ったら、今度は僕が二人を引き裂いて殺す。それが条件」

Rinが手を上げた。

言い終わるのと、ほとんど同時だった。

「僕はここに残る」

Curiousが目を細めた。

Rinが俺を指した。

「こいつを外へ出して」

「Rin」

俺は身体を起こした。

脚が自分のものではないように震えた。

「何」

「一緒に来い」

「だめ」

「なんで」

Rinの目が光った。

怖くないからではなかった。

逃げることより先に、見たいものができた目だった。

Juicy Machineの後ろ。

Curiousがいた場所。

黒い空間の向こうに立つ構造物。

本の中でしか見たことのない存在たち。

答え。

Rinは俺を助けたかった。

それは嘘ではなかった。

同時に、ここへ残りたかった。

それも嘘ではなかった。

Rinにとって、その二つは同じ選択だった。

捕まって残るのではない。

自分自身を賭け金にしていた。

「嫌だって言え」

俺が言った。

「もう選んだ」

「取り消せ」

「僕の勝ちだろ」

「何の話だよ」

「今度は僕が決める」

俺はRinへ走った。

黒い床が後ろへ滑った。

足は前へ進んでいるのに、距離は縮まらなかった。

ランニングマシンの上を走っているように、脚だけが動いた。

手を伸ばした。

Rinも手を上げた。

指先の間には、ずっと同じ距離が残った。

背後から扉が俺を引いた。

前へ飛んでいるような感覚なのに、実際にはその場で空を掻いているだけだった。

「来るな」

Rinが言った。

「黙れ」

「今度はお前が出るんだ」

「一緒に行く」

「嫌だ」

Rinは一瞬だけ笑った。

自分の咳の音に驚いていた顔。

パンをスープに浸していた顔。

謎には答えがあると信じていた、狂った奴。

「明日からは、僕がお前を見てる」

床が折り畳まれた。

黒い構造物が後ろへ流れた。

RinとCuriousとJuicy Machineが、一枚の黒い面の中へ小さくなった。

俺は走り続けた。

手を伸ばした。

Rinの指が遠ざかった。

黒が消えた。

蛍光灯が点いた。

俺は実験棟地下二階、三番目の部屋へ転がり落ちた。

本棚があった。

壁があった。

天井もあった。

だがJuicy Machineはなかった。

Rinもいなかった。

The Manもいなかった。

部屋の反対側にあった椅子だけが倒れていた。

床の円形文様の中央には、黒い点が一つ残っていた。

爪より小さかった。

俺は触らなかった。

一時間が過ぎても、The Manは戻らなかった。

Rinを連れていった実験も、予定時刻を超えていた。

廊下の外から機械音がした。

エレベーターが降りてきていた。

階数表示が変わった。

地下一階。

地下二階。

扉が開いた。

Carlsonの革靴が廊下の床を踏んだ。

片手には拳銃。

もう片方には、孤児院の食堂から持ってきたコーヒーカップ。

廊下へ出ると、コーヒーを一口飲んだ。

冷めた匂いが先に届いた。

「The Man」

返事はなかった。

「Rin」

返事はなかった。

Carlsonはカップを床へ置いた。

拳銃を両手で構えた。

「出てこい」

俺は三番目の部屋の隣にある準備室へ隠れた。

呼吸を浅くした。

喉の奥で黒い糸が動く感覚がした。

Carlsonが廊下を歩いた。

三番目の部屋の前で止まった。

床に残る黒い点を見た。

管理通路から落ちた金属格子を見た。

そして、俺のいるほうへ銃口を向けた。

「そこにいるだろ」

俺は動かなかった。

Carlsonが一歩近づいた。

「出てくれば脚は撃たない」

子供に向ける言葉ではなかった。

壊れた道具を回収するときの口調だった。

俺は隣の部屋へゆっくり移動した。

運動靴の底が床を擦った。

Carlsonの銃口が音を追った。

わかっていた。

俺が隠れていることも。

どちらへ動いているかも。

正面へ出れば死ぬ。

ほかに道はなかった。

扉の枠の後ろで身体を低くした。

Carlsonが近づいた。

三歩。

二歩。

一歩。

身体の内側が冷たく沈んだ。

音が遠ざかった。

蛍光灯の電気音も。

Carlsonの呼吸も。

自分の心臓の音も。

全部が薄くなった。

壁に張りついていた影が消えた。

自分の身体の位置が、自分の感覚からも抜け落ちた。

Carlsonの銃口が、俺の隠れている場所の横を通り過ぎた。

あいつの目には、俺が見えていなかった。

ほんの一瞬だった。

背後から飛びついた。

腕をCarlsonの首へ回した。

背中へ乗り、脚を腰へ巻きつけた。

Carlsonが身体を前へ曲げた。

俺の身体が持ち上がり、そのまま壁へ叩きつけられた。

息が抜けた。

腕は離さなかった。

Carlsonは左手で俺の腕を引き剥がそうとした。

右手の拳銃を後ろへ曲げた。

銃口が俺の脇腹を向いた。

脚を蹴り出した。

踵が手首へ当たった。

銃声。

弾丸が天井へ飛んだ。

コンクリートの粉が顔へ降った。

もう一度蹴った。

拳銃が床を滑った。

Carlsonは身体を回し、俺を壁へ叩きつけた。

腕がほどけた。

俺は床へ落ちた。

Carlsonが髪を掴んだ。

顔を引き上げられた。

拳が口元にめり込んだ。

唇が切れた。

二発目が来る前に、指を突き出した。

人差し指と中指が、Carlsonの左目へ入った。

爪の下へ熱いものが押し返してきた。

Carlsonが初めて叫んだ。

あいつの手が離れた。

俺は床へうつ伏せになった。

拳銃は廊下の反対側にあった。

Carlsonも見た。

同時に動いた。

俺は這った。

Carlsonは片手で目を押さえながら、身体を投げ出した。

俺の足首を掴んだ。

前へ倒れた。

顎が床へぶつかった。

Carlsonが脚を引いた。

俺は壁の角を掴んだ。

指が滑った。

拳銃まで、あと腕一本分だった。

Carlsonが俺の腰へ乗った。

肘が背骨を押した。

「じっとしてろ」

あいつが言った。

「お前も書類一枚で終わる」

手を伸ばした。

届かなかった。

身体の内側で、別の腕が動く感覚がした。

俺の右腕は床にあった。

だが床の影が、俺の手より半分ほど先まで伸びた。

黒い指先が拳銃のグリップへ触れた。

拳銃が床を擦り、少しだけ動いた。

それだけだった。

Carlsonが音に気づいた。

顔を向けた。

俺は身体を捻った。

あいつの手の甲へ噛みついた。

血の味がした。

Carlsonが腕を引いた。

もう一度這った。

指先が拳銃のグリップへ届いた。

冷たかった。

思っていたより重かった。

Carlsonが俺の手首を掴もうとした。

引き金を引いた。

銃声。

一発目が肩を貫いた。

Carlsonの身体が横へ揺れた。

それでも止まらなかった。

片目から血を流しながら、俺の喉へ手を伸ばした。

銃声。

二発目が胸へ入った。

Carlsonが片膝をついた。

俺は立ち上がった。

銃口が震えた。

Carlsonは俺を見上げていた。

まだ俺を子供だと思っている顔だった。

Yokoがごみ箱へ捨てられた音を思い出した。

ごとん。

一つずつ椅子が片づけられていった食堂。

親族へ引き渡し。

適応障害。

先天性疾患。

Carlsonの書類。

Carlsonのコーヒー。

腰に下げていた拳銃。

十二歳から十四歳までの時間が、引き金の中へ詰まっていた。

銃声。

三発目がCarlsonの頭を後ろへ弾いた。

あいつは床へ倒れた。

銃声が止むと、廊下は静かすぎた。

蛍光灯の音が戻った。

自分の呼吸音も戻った。

影が遅れて足元へ這い戻った。

Carlsonは動かなかった。

俺が初めて殺した人間だった。

Yokoを殺したのはThe Manだった。

Rinを連れていったのはCuriousだった。

Carlsonは、俺が殺した。

その違いは、そのあとも消えなかった。

拳銃を下ろせなかった。

指が引き金へ張りついていた。

かなり時間が経ってから、ようやく手を開いた。

拳銃が床へ落ちた。

Carlsonのポケットを探った。

鍵。

財布。

携帯電話。

画面にはひびが入っていた。

手についた血のせいで反応しなかった。

袖で拭いて番号を押した。

呼び出し音が鳴った。

一度。

二度。

三度。

「警察です。どうしましたか」

口が開かなかった。

喉にはまだThe Manの糸が引っかかっていた。

電話の向こうから、もう一度声がした。

「もしもし?」

上の階を見た。

孤児院は山道の上にあった。

閉ざされた子供たちの部屋。

何も見なかったふりをする子供たち。

次の順番を待つ名前。

「ここに」

声が割れた。

唾を飲み込んだ。

「子供が、たくさん閉じ込められてます」

相手が何かを聞いた。

住所。

名前。

何が起きているのか。

孤児院の玄関に書かれていた道路名を伝えた。

「ここで、実験をしてます」

電話の向こうの声が速くなった。

Carlsonの鍵を拾った。

「助けてください」

自分の名前は言わなかった。

通話も切らなかった。

携帯電話を廊下の床へ置いた。

Carlsonの鍵で実験棟の階段扉を開けた。

地上へ上がり、倉庫の裏口から外へ出た。

雨はさらに強くなっていた。

山道を上り、孤児院へ戻った。

食堂には、Carlsonが食べ残した夕食が置かれていた。

空いた席の横には、冷めたコーヒーの匂いが残っていた。

廊下では、子供たちの部屋が閉ざされていた。

鍵を一本ずつ試した。

一つ目の扉。

二つ目の扉。

三つ目の扉。

残った扉も、順番に開けた。

錠が外れる音が廊下を伝った。

扉はすぐには開かなかった。

隙間から目だけが見えた。

誰も俺を呼ばなかった。

俺も、出てこいとは言わなかった。

Carlsonの鍵で、玄関の内側の錠を外した。

正面玄関を開けた。

冷たい雨風が建物の中へ入った。

扉は閉めなかった。

俺は一人で山道を走った。

運動靴から水が跳ねた。

口の中には、Carlsonの血とThe Manの匂いが一緒に残っていた。

身体の中では、俺ではないものが走っていた。

影が足より先に道を踏んだ。

どれほど走ったのかわからない。

息が切れそうになり、道路脇で止まった。

手を開くと、Rinの名札があった。

いつ掴んだのか、覚えていなかった。

透明なビニールの端に、黒い一滴がぶら下がっていた。

雨が手のひらを叩いた。

一滴は揺れなかった。

落ちもしなかった。

あの日、俺はThe Manを食べた。

Rinは地獄に残った。

Carlsonは、俺が初めて殺した人間になった。

そして一滴は、まだ落ちていない。