COORDINATE X

A DROP

一滴

SPECIAL PROLOGUE · 読了目安20〜25分

本作には、児童への暴力、身体変容、銃器の描写が含まれます。

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俺は人がゴミ箱に捨てられるところを先に見て、それからしばらくして、人の形をしたものを食った。

どちらも十四のときだ。

◆ ◆ ◆

ヨーコが捨てられた日は雨だった。

山を伝って落ちてきた雨水が、古いアスファルトを黒く濡らしていた。バスもほとんど通らない道路の終わりに灰色のセメントの建物が一棟立っていて、その前には錆びた鉄の遊具と、半分崩れた塀と、塀よりはましな正門があった。

正門の横には、市が発行した許可証が額に入って掛かっていた。

児童保護施設。

定員 十二名。

生活指導員 一名。

医療支援 可。

書いてある中で事実に近いのは、定員くらいだった。

そこを管理している人間はカールソン一人だった。

カールソンは毎朝、夜が明ける前に事務室でコーヒーを淹れた。ありふれた挽き豆。紙フィルターの上に湯をゆっくり注ぎ、茶色い液体がガラスポットに溜まっていくのを眺めていた。あの建物で漂う匂いのうち、まともなものはそれだけだった。

砂糖は入れなかった。

左手でカップを持ち、右手で書類をめくった。腰にはいつも拳銃があった。子供をトラックに乗せるときも、食料の箱を運ぶときも、風呂場の前で人数を数えるときも下げていた。革のホルスターの縁が擦り切れて、グリップがむき出しになっていた。

銃を抜くところを見た子供はいなかった。

それでも全員、あれが飾りではないことを知っていた。

カールソンが担当していたのは外側だった。

区役所の職員が来れば笑い、後援者が訪ねてくれば綺麗な部屋だけを見せ、病院には健康な子供の記録だけを送った。消えた子供がいれば〈親族へ引き渡し〉と書いた。戻ってきた子供が喋れなくなっていれば〈適応障害〉、腕が動かなければ〈先天性疾患〉、熱が⻑く引かなければ〈入所前から虚弱〉と書いた。

カールソンは判を押して、ここを孤児院にした。

それが彼の仕事だった。

内側は、別のものの仕事だった。

◆ ◆ ◆

俺たちはそれを The Man と呼んでいた。

誰が最初にそう呼び始めたのかは知らない。カールソンが教えた名前でもなかった。別の名前をつけるにはそれは人間に見えすぎたし、人間と呼ぶには行きすぎていた。

The Man はそう頻繁には現れなかった。一週間まったく見ない時もあれば、ひと月に三度降りてくる月もあった。

現れる日は、子供のほうが先に気づいた。カールソンがコーヒーを半分残し、拳銃の安全装置を確かめ、食堂の扉をいつもより早く閉めた。

そして廊下の突き当たりに、黒いものが立っていた。

The Man は背が高かった。天井より大きいという意味ではない。それならまだ理解しやすかった。廊下の中に入っているのに廊下の寸法に合っておらず、頭は天井に届いていないのに、視線を上げていくと首がどこまでも続いているように見えた。

黒い外皮はスーツのように見えたが、襟もボタンもはっきりしなかった。腕は体の脇にまっすぐ垂れ、指先は膝の下で止まっていた。

顔は白かった。

卵の殻のようになめらかだった。

目も、鼻も、口もなかった。

それでも、見られているということは分かった。

The Man は子供を一人選んだ。手を差し出した。そして待った。

引きずらなかった。腕をねじりもしなかった。子供が自分からその手を取るまで、じっと立っていた。

断った子供はいなかった。

断った子供は、もういなかったからだ。

The Man と一緒に消えた子供は、戻ってこないか、戻ってきてもどこかが変わっていた。アキラは戻ってから眠らなくなり、一晩じゅう壁を向いて座って、朝になると倒れた。マリは食べ物の名前を忘れて、飯と水と自分の指を同じ名前で呼んだ。ケイは笑うたび、口の中で紙を速くめくるような音がした。

子供たちは最初、泣いた。次に、隠れた。しばらくすると、食器を受け取る列に並んだ。

消えるということは特別な事件ではなかった。山に冬が来るのと似ていて、怖がっても来たし、憎んでも来た。

俺たちは受け入れたふりをする方法を覚えた。

それができない奴は、⻑く保たなかった。

◆ ◆ ◆

ヨーコもその一人だった。

ヨーコと仲が良かった、と言うには微妙だった。俺はあの頃、誰にも情を移さなかった。名前を⻑く覚えていると、消えたときに面倒になるからだ。

それでもヨーコはときどき俺の横に座った。残ったパンをくれて、俺が返すと翌日また持ってきた。緊張すると右の袖口を指に巻いた。左の眉尻には短い傷跡があった。

その日、The Man はヨーコと俺を連れていった。

ヨーコが先だった。

俺は次だった。

孤児院の裏手の山裾には古い屋敷が隠れていた。正門からは見えず、洗濯室の奥の鍵のかかった扉を抜けて、雨に濡れた山道を少し下る必要があった。木立を抜けると、黒い煉瓦で建てられた家が現れた。

窓の半分は板で塞がれていた。玄関にも廊下にも埃はなく、古い木材からはワックスの匂いがした。壁の両側には扉が並び、取っ手の上には名前ではなく番号がついていた。

The Man はヨーコの手を引いて地下へ降りた。俺は二歩後ろからついていった。

階段は屋敷の深さより⻑く続いた。床には階の表示がなかった。The Man が扉を開ければ、そこが何階だろうと部屋になった。

ヨーコが入った部屋には、テーブルが一つと透明な水槽と金属のゴミ箱があった。テーブルの上には新しいトイレットペーパーのロールが置かれていた。

ありふれて見えた。

白かった。

薄くて、手で掴めば簡単に破れそうだった。

The Man はヨーコにロールを持たせた。

ヨーコの手が震えた。彼女は紙を水槽の上へ移そうとして、取り落とした。

ロールが床に落ちた。

半周。

二周。

三周。

白い紙がほどけて、湿ったセメントの床に触れた。

水がこぼれたわけでもないのに、床が沈んだ。紙が触れた部分からセメントが色を失った。埃にもならず、溶けて流れもしなかった。

床の硬さが、紙のほうへ移っていった。

薄い紙の上に灰色のセメントの質感が押し込まれた。小さなひび割れも、砂粒も、靴底で擦れた跡まで判別できた。

ヨーコが慌ててロールを拾おうとした。

The Man の腕が裂けた。

黒い触手が一本、手首の内側から伸びてきた。触手の先が紙の芯の中へ入った。

ぴったりだった。

The Man が触手を回した。

床にほどけた紙が速く巻き取られた。同時に反対側から新しい紙が広がった。

ヨーコが後ずさった。

白い紙が彼女の腕に触れた。

濡れる音がした。

ヨーコは悲鳴を上げられなかった。腕の表面が水のように崩れて紙に貼りついた。肉と服と骨は別々に分かれなかった。人の色と形が、薄い紙の上に一度に押し込まれた。

The Man がさらに触手を回した。

白い紙がヨーコの胸と顔を通過した。

一枚めくれるたびに、ヨーコは小さくなった。

右の袖口が紙に埋まった。

左の眉尻の傷跡が、細い線になって残った。

最後につま先が一つ残った。

紙が一度かすめた。

つま先も消えた。

ロールは最初と同じくらいの大きさに戻った。少し重くなっただけだった。表面には濡れた髪が一本と、爪の半月と、瞳のように見える黒い染みが埋まっていた。

紙はもう湿っていなかった。硬くなった表面を触手が叩くと、薄いプラスチックのような音がした。

The Man はロールを引き抜いた。金属のゴミ箱の蓋を開けた。そして、捨てた。

コトン。

人が一人消えたにしては軽い音だった。

俺はすぐ横に立っていた。息ができなかった。逃げることもできなかった。

The Man の白い顔が俺のほうを向いた。

何もない顔だった。

その後ろに何があるのか気になった。

恐怖と同時にそんなことを考えた。なぜヨーコだったのか、なぜ紙だったのか、紙の中に入ったヨーコはまだヨーコなのか、ゴミ箱を開ければ取り出せるのか。

疑問が湧くという事実のほうが、恐怖より吐き気がした。

The Man はしばらく俺を覗き込んでいた。

俺はその日、自分が死ぬと思った。

だが、そいつは俺の手を取らなかった。首をほんの少し傾けて、そのまま部屋を出ていった。

カールソンは夕食のときにヨーコの椅子を片づけ、事務室に戻って冷めたコーヒーを飲んだ。書類には〈親族へ引き渡し〉と書いた。

その日から俺は The Man を憎んだ。

怖がることと憎むことは違う。

怖ければ避ける。

憎めば、見続ける。

俺は The Man が現れるたび、目を逸らさなかった。何もない顔の裏に何があるのか知りたかった。

◆ ◆ ◆

リンは俺より先に孤児院に入っていた。あいつが十一歳、俺が十二歳のときだ。俺たちが十四になるまでに、一緒にいた子供の半分以上が入れ替わり、リンと俺は古株のほうに入っていた。

リンは白血病を患っていた。カールソンの書類には〈先天性疾患〉と書かれていたが、リンは三度目の実験までそんな病気はなかったと言った。

階段を一階分上がると息を整えた。冬には指先がよく⻘くなった。カールソンが配る薬を飲むと、半日は手が震えた。

だからといって弱い奴ではなかった。力がなかっただけだ。

リンは変なものが好きだった。扉が閉まっていれば開けようとし、数が合わなければ理由を探した。カールソンが倉庫の錠を替えれば、その日のうちに鍵の⻭の数を突き止めた。

一度、食事の途中で突然こう言った。

「消えた奴より、戻ってきた奴のほうが変じゃないか?」

俺はスープを飲んだ。

「どっちも変だろ。」

「消えた奴は答えだ。」

「何の答えだよ。」

「いなくなったっていう答え。」

「戻ってきた奴は?」

「問題が残ってる。」

リンは何でもないことのように言って、パンをスープに浸した。

見た目はふざけた奴だった。体に合わない大きなサンダルを引きずって歩き、咳をして自分の出した音に驚いたりした。カールソンがすぐ後ろで見ているのに、スプーンで錠を開ける真似をして手の甲を叩かれた。

リンは叩かれた手を振りながら言った。

「もう少しで開いたのに。」

その錠にはスプーンが入る隙間すらなかった。

だが、目を見れば分かった。

リンは、まともなふりをしていた。

その目には恐怖より先に好奇心が満ちていた。謎には答えがあると信じていて、答えを得る過程が命より面白いと思っている顔だった。

イカれた奴だった。

誰も知らなかったが、俺は知っていた。

リンは実験室へ引きずられていくときも、怯えたふりをしていた。The Man が体を調べ、腕に管を刺し、聞き取れない文章を読み上げている間、あいつは目を半分閉じていた。

カールソンは薬が効いたと思った。

The Man は反応が減ったと記録した。

リンは寝たふりをして、本を読んでいた。

実験室の壁には古い本が並んでいた。人の皮に見える表紙。文字が動くページ。読んだ文章を消すと別の文章が浮かび上がる紙。

リンは顔を上げずに、開かれたページの内容を暗記した。逆さに置かれた文章も読んだし、ガラス管に映った文字も覚えていた。

実験が終わると、俺には欠片だけを寄越した。

「名前ってのは、呼ぶもんじゃなくて指定するもんらしい。」

「誰が。」

「名前があるやつら。」

「またイカれたこと言ってる。」

「ないやつだって、名前くらいは欲しいんだとさ。」

そういう言い方だった。冗談に聞こえるが、捨ててはいけない言葉。

リンはいつも、いちばん大事なところをゴミみたいに落としていった。

◆ ◆ ◆

山道を下った実験棟の地下二階、三番目の部屋にジュースマシンがあった。子供たちがつけた名前だ。

俺は直接見たことがなかった。リンは何度も見ていた。

「自販機だよ。」

「自販機?」

「飲み物の写真が貼ってあって、下に番号がある。コイン入れてボタン押せば出てくる。」

「じゃあ、ただの自販機じゃん。」

「上にもうひとつキーがある。」

「キー?」

「文字を打つやつ。」

リンはパンをスープに沈めた。

「打ってエンター押せば、それも出してくれる。」

「何を。」

「打ったもの。」

「何でも?」

「ぶどうって打てばぶどうジュース。ガソリンって打てばガソリン。睡眠って打てば、眠る水。」

「飲んだ奴がいるのか?」

「聞いた話だ。」

リンは汁の染みたパンを噛んだ。

「コップは持っていけよ。機械はコップをくれない。」

「コインは何でもいいのか?」

「片面に10セント、反対側に知らない文字。それだけ。」

「何回使える。」

「一日一回。」

「だめなもの打ったら?」

「緑のランプが赤になる。中で短くウンと鳴って終わり。何も出てこない。」

「じゃあコインは返ってくるのか?」

リンがスプーンを止めた。

「いや。」

「返さないのか?」

「その日の一回も一緒に消える。」

リンはしばらくスープを見ていた。

「それが一番おかしい。」

「何が。」

「やってないのに、代金は取ったろ。」

俺はスープを飲み干した。

「それで何を出すつもりなんだよ。」

俺が訊いたとき、リンはしばらく答えなかった。

「答え。」

「答えってどんな味だよ。」

「だから確かめるんだ。」

「飲んで死んだら。」

「答えは出るな。」

リンは笑った。

俺は笑わなかった。

「あの機械の後ろに何かある。」

「壁だろ。」

「そういう意味じゃない。」

リンの目が細くなった。

「出さないものが多すぎる。」

「壊れてるんだろ。」

「壊れた機械に基準はない。」

リンはパンの端を爪で押した。

「あれは選んで断ってる。」

あいつはジュースマシンを、物質を作る機械だとは考えていなかった。要求を判断する何か。単語と所有者と代金を結びつける何か。要求した人間がその代金を払えるかどうかを確かめる窓口。

俺はその話を全部は理解できなかった。

それでもリンを信じた。

他の子供には、しなかったことだ。

◆ ◆ ◆

実験の前の晩、リンは俺のベッドの下に座っていた。子供たちはみんな寝たふりをしていて、遠くのカールソンの事務室からラジオが小さく鳴っていた。

リンが言った。

「明日、俺をちゃんと見ててくれ。」

「見てるだろ。」

「最後まで。」

俺は体を起こした。

リンは普段から変なことを言った。だが、頼み事はしなかった。自分の分を分けてくれとも言わなかったし、実験室に一緒に来てくれとも言わなかった。殴られて戻ってきた日も、薬をくれと言ったことがなかった。

そのリンが初めて、俺に何かを頼んだ。

言葉より目のほうが記憶に残った。

怯えた目ではなかった。どこまで行くかをもう決めてある人間の目だった。

「明日、何かあるのか。」

「順番が来た。」

その一言で足りた。

The Man。

リンはポケットからスプーンを一本取り出した。丸い頭は切り落とされていて、残った柄の先は⻑く削られて、鍵のようにぎざぎざになっていた。

「実験棟の倉庫の裏の扉。」

あいつが俺の手に握らせた。

「二回回して、上に持ち上げろ。」

「これで開くのか?」

「昨日は開いた。」

「昨日?」

リンは答えなかった。

俺はスプーンの鍵を、ベッドの横の排気口の中に隠した。

するとリンが言った。

「The Man のあの野郎が死んだら、残ったやつを食ってくれ。」

「何を。」

「残ったやつ。」

「食わねえよ。」

「知ってる。」

「お前、本気でイカれてんのか?」

「それも知ってる。」

リンは毛布の端のほつれた糸を指に巻いて、ほどいた。

「でも、お前が食わなきゃだめなんだ。」

「なんで。」

「お前のだから。」

「ちゃんと言え。」

「俺が知ってるのはそこまでだ。」

その日も説明はなかった。

◆ ◆ ◆

翌日の午後七時になる少し前、カールソンは食堂へ行った。彼は毎日同じ時間に夕飯を食べた。飯を食っている間も拳銃は腰にあったが、孤児院の裏手を自分で確認することはなかった。夕食だけは The Man も触らないと信じているようだった。

The Man はリンを連れて孤児院の外へ出た。

ジュースマシンがあるのは孤児院の地下ではなく、山道の下のほうに離れて建つ別の実験棟だった。外から見れば倉庫と大差のない建物だった。

俺は二人が視界から消えるまで待って、排気口に隠しておいたスプーンの鍵を取り出した。

食堂からは皿と匙のぶつかる音がしていた。

カールソンが夕飯を食っていた。

俺は塀を回って実験棟の裏へ走った。

倉庫側の裏口には小さな鍵穴があった。

スプーンの先を入れた。二回回した。上に持ち上げた。

内側で掛け金が押された。

リンはイカれた奴だったが、外したことはあまりなかった。

俺は扉を開けて中に入った。

倉庫には空の薬品箱と錆びた運搬台が積まれていて、奥の階段は地下へ続いていた。階段の脇の古い貨物用エレベーターは、階数表示灯だけを消したまま止まっていた。

俺は足音を殺して降りた。

地下一階。

もう一階分。

地下二階。

三番目の部屋の近くに古い管理通路があった。壁の内側に入って体を丸めると、金属の格子越しに、少し開いた扉の隙間から部屋の中が見えた。

俺はそこからリンを見ていた。

助けるためだったのかは分からない。リンが初めて頼んだからで、最後まで見ろと言われたからで、前の晩のあの目がずっと頭に残っていたからだ。

◆ ◆ ◆

ジュースマシンは、リンが言っていたよりも古く、そしてまともだった。

普通の飲料自販機くらいの大きさだった。濁った黒の外装はところどころ酸化していて、角と扉は金庫のように厚かった。あれだけ古いのに、へこんだ箇所も、開いた継ぎ目もなかった。

上部には飲み物の写真が貼られていた。コーヒー。赤い果実のジュース。色の褪せた炭酸飲料。

写真は白い照明で浅く光っていて、右側には QWERTY のキーボードがついていた。キーは分厚く、文字は半分擦れていた。

キーの上には Juicy Machine という文字が、野暮ったい筆記体で曲がっていた。

上品なふりをした字だった。

機械より、そっちのほうが気分が悪かった。

排出口の下にはコップ一つを置ける空間があって、その周りには乾いた飲み物の跡ひとつなかった。

部屋は実験室というより古い書斎に近かった。壁という壁に本棚があり、本の間にはガラス管と金属器具が挟まっていた。床には円形の紋様が刻まれていた。

The Man はジュースマシンの横に立ってはいなかった。

部屋の反対側に置かれた古めかしい椅子に座っていた。

黒い木で作られた幅の広い椅子だった。背もたれが高すぎて、The Manの⻑い体すら小さく見えた。そいつは脚を組んでいて、片手には分厚い本が握られていた。

本を読んでいるように見えたが、白い顔に目はなかった。

リンはジュースマシンの前に一人で立っていた。排出口の下には小さなガラスのコップが置かれていた。

The Man が用意したものだった。

ジュースマシンの脇の棚には古い硬貨が並んでいた。片面には 10¢、反対側には擦り切れた記号が刻まれていた。

The Man が本から顔を上げないまま言った。

「入れろ。」

リンが硬貨を摘まんでスロットに入れた。

機械の内側で硬貨が転がる音がした。

チャリン。

飲み物の写真の横に緑のランプが点いた。

The Man が本のページを一枚めくった。

「A SIP OF MY SOUL。」

リンの手が QWERTY のキーの上へ上がった。

「そのまま打て。」

その文の MY は、命令した The Man を指していなかった。キーボードの前に立つリン自身を指していた。

リンは自分の手で、自分の魂を一口ぶん注文しなければならなかった。機械が本当にそれを出すのかは分からなかったし、出てきたものが液体ならガラスのコップで受けて The Man に渡さなければならなかった。

The Man は本を読んでいた。

いや、読むふりをしてリンを見ていた。

目がないのに、分かった。

リンの肩が震えた。指先がキーの上で細かく揺れた。

俺は金属の格子を掴んだ手に力を入れた。リンより俺の心臓のほうが大きく鳴っている気がした。

The Man がページをめくった。

リンの手が止まった。

震えがあまりに急に消えたので、かえって異様だった。

リンが顔を上げた。

いつもの間抜けな顔ではなかった。

The Man がページをめくる手を止めた。

リンの指のほうが先に動いた。

Y。

分厚いキーが短く引っかかって沈んだ。機械の内側で金属のピンがひとつ移動した。

カチッ。

The Man の白い顔が本の上から持ち上がった。

O。

二つ目のキーが沈んだ。もっと深いところで⻭車が一つ分繰り上がった。

The Man が本を閉じた。

本が椅子の肘掛けの上を滑った。黒い腕が背中の後ろから裂けて、リンへ向かって伸びた。

U。

リンの小指がエンターキーを叩き落とした。

ゴトン。

次の瞬間、The Man は椅子から消えていた。

黒い触手の先がリンの喉の前まで来た。

ジュースマシンの内側で、低く重い振動音が鳴った。

本体は動かなかった。分厚い外装の内側だけで、巨大な装置が回る音がした。金属の部品が連続して噛み合い、閉じた筒の中で何かを絞り出すような圧力の音が続いた。

触手の先がリンの皮膚に触れる直前だった。

音が止んだ。

排出口の先に、黒いものが結んだ。

ガラスのコップはすぐ下にあった。まともな液体なら、その中に落ちていたはずだ。

黒い雫は光を反射しなかった。影を丸く握り潰して、排出口の先にぶら下げたようだった。

雫が排出口の内側へ一度跳ねた。

もう一度。

それからガラスのコップを逸れて、空中へ飛び出した。

黒い雫がリンの右足の横に落ちた。

ポツ。

◆ ◆ ◆

最初に消えたのは床の色だった。

灰色のセメントの上を黒が広がった。塗られているのではなかった。黒い面に触れた床が深さを失い、本棚を支えていた壁が消され、天井の照明が失われて扉と床の境界がほどけた。

固定された構造物が、現実の背景から抜けていった。

それなのに、リンは残っていた。

The Man も残っていた。

ジュースマシンとガラスのコップ、倒れていた本と移動式の金属器具もそのままだった。

俺が隠れていた管理通路の壁が消えた。手で掴んでいた金属の格子は、固定する壁を失って俺の手にぶら下がった。

呑まれたのは俺たちではなかった。

俺たちを囲っていた部屋のほうだった。

セメントと壁紙と天井の裏から、もっと深い黒の空間が現れた。

部屋は崩れなかった。一枚、剥がれた。

地下二階の三番目の部屋にあった人と物が、そのまま、別の場所の上に広げられた。

床のように見える黒い面は遠くまで続き、天井はなかった。本棚があった場所の向こうには、大きさを測れない構造物が歪んだ角度で立っていた。近く見えて、同時に果てしなく遠かった。

風はなかった。

それなのに、リンの髪が片側へ動いた。

ジュースマシンは黒い空間の真ん中に残っていた。

古びた外装。

野暮ったい筆記体。

緑のランプは、まだ点いていた。

そしてその後ろに、誰かが座っていた。

最初からそこにいたかのように。

姿勢はゆるく、片腕を椅子の背もたれに掛けていた。顔と服の境界はよく見えなかった。明らかに俺のほうを向いていないのに、俺とリンとThe Man を一度に見ているという感じがした。

リンが息のように名前を口にした。

「Curious。」

呼ばれたものが顔を上げた。

「僕?」

声は軽かった。誤配された荷物を確かめる人間のようだった。

The Man はリンへ伸ばしかけた腕を止めた。

ごく短い一瞬だった。

そいつは新しく開いた空間と、ジュースマシンの後ろの存在を同時に把握した。白い顔がわずかに、俺のいるほうへ向いた。

俺がついてきたことをいつから知っていたのかは分からない。

The Man は再び Curious を見た。

リンはもう、最初の標的ではなかった。

The Man の腕が四つに裂けて黒い刃が床を打ち、⻑い体が前へ飛んだ。一瞬前までリンの前にあった形が、ジュースマシンを越えてCurious の首の前まで到達した。

速かった。

刃の一本が Curious の顔をかすめた。

黒い表面に細い線が入った。その隙間から黒い液体が一滴流れ落ちた。

Curious が笑った。

「僕から選んだのは正解だったね。」

空中がにじんだ。

手が現れたと思った。だが、手を見た記憶はない。五本の⻑い痕が The Man の手足と首を同時に掴んだ。

The Man は体をねじった。触手が黒い床を裂き、刃が虚空を斬った。

一合だった。

その一度で終わった。

空中の痕が内側へすぼまった。

The Man の⻑い腕が折り畳まれた。脚が腰のほうへ折れた。黒い外皮と白い顔が体の中心へ押し込まれた。

骨の折れる音は一度には鳴らなかった。

ゴキ。

ゴキゴキッ。

濡れた紙を何枚も重ねて握り潰すように、音が続いた。

人より大きかった形が旅行鞄ほどになり、また頭ほどになり、最後に拳より少し大きい肉の塊が残った。

Curious が指を払うように空中を動かした。

塊が床へ投げ捨てられた。

コトン。

ヨーコがゴミ箱に捨てられたときより軽い音だった。

◆ ◆ ◆

俺は手に残った金属の格子を払い落とし、黒い空間へ身を投げた。

落ちる高さは腕一本ぶんくらいだったのに、床に着くまで異様に⻑くかかった。

膝が黒い面にぶつかった。

リンが俺を見た。

俺は床の塊を見た。

The Man。

あの野郎が死んだら、残ったやつを食ってくれ。

「イカれ野郎が。」

誰に言ったのかは分からない。リンにか。The Man にか。自分にか。

塊はまだ動いていた。表面から細い黒い糸が出かかって、また肉の中へ潜っていった。

俺はそれを摘まみ上げた。

重かった。拳ほどの大きさなのに、人ひとりを丸ごと持ち上げたようだった。

最初は匂いがなかった。

口の近くへ持っていくと、匂いが生まれた。

濡れた布。

古い血。

ヨーコが消えた部屋のセメント。

カールソンの冷めたコーヒー。

吐きそうだった。

「早く。」

リンが言った。

あいつは Curious を見ていた。

Curious は俺を見ていた。

「他に方法はないのか。」

リンが首を振った。

「知らない。」

「知らないのに食えって言ったのか?」

「ああ。」

塊が俺の手の中で一度跳ねた。

リンの顔は白く血の気が引いていた。あいつもこの次に何が起きるか知らなかった。それでも俺を見て頷いた。

Curious がすぐ目の前に座っていた。その瞬間、俺が掴めるものは、リンが先に残していった言葉だけだった。

俺は塊に噛みついた。

表面はゴムのように耐えた。⻭をもっと深く突き立てると、薄い皮が破れた。

中から血の代わりに、冷たい糸が溢れ出した。

糸が⻭茎を巻き、舌の下へ入り、上顎と頬の内側に貼りついた。

俺は吐き出そうとした。

塊が俺の口の内側を掴んだ。

噛むという行為ではなかった。

互いの中へ入り込もうとする行為だった。

俺は顎に力を入れた。

一度。

固いものが伸びた。

二度。

糸が一本切れた。

塊が喉の奥へ滑り落ちた。

えずきが上がってきた。黒い糸が喉の内側に引っかかって下りていかず、指を口に入れて取り出そうとすると、糸が指に巻きついてまた奥へ這い込んだ。

そいつも俺を食っていた。

俺は顎に残った塊をもう一度噛んだ。

三度目に⻭が噛み合ったとき、固いものが切れた。

冷たい残骸を飲み込んだ。

胸の中で何かが広がった。

俺の影のほうが先に立ち上がった。

俺はまだ膝をついていた。

右手を動かそうとしたのに、左肩の後ろで指が動く感覚がした。息を吸い込んだ。肺が一拍遅れて膨らんだ。

体の内側で、別のものが俺の動きを真似していた。

最初はぎこちなく。

少しあとには、もっと正確に。

◆ ◆ ◆

Curious が椅子の背もたれに体を預けた。

「二人は見たことあるけど、三人は初めてだな。」

リンは黙っていた。

「ひとりは呼んで。」

Curious がリンを指した。

「ひとりは挑んで。」

床に残った黒い染みを指した。

「ひとりは食った。」

今度は俺を見た。

「面白いね。」

口調は明るかった。

だから、なお悪かった。

そのあと Curious は何も言わなかった。

俺は三度吐いた。黒い糸が唾と一緒に床へ流れ出て、黒い面の上でしばらく蠢いてから向きを変え、俺の手首を伝って上ってきた。剥がそうとすると皮膚の下へ入った。

Curious は見ていた。

俺が吐けばそちらへ顔を向け、リンが咳をすればリンを見て、糸が手首を上ってくるときは体を少し前へ倒した。

それだけだった。

The Man を一合で畳んだ手が膝の上に置かれていた。その気になれば、俺たち二人を同じやり方で畳むことができた。

動かなかった。

見物がまだ終わっていないだけだった。

The Man には目がなかったのに、見ているのが分かった。ここに座っているものは目があるのかどうかすら分からなかったのに、楽しんでいることだけが分かった。

時間を数える方法がなかった。

天井がないので光が変わらず、黒い面の上には影が落ちなかった。

俺の影だけが例外だった。

そいつは俺の動きを待たなかった。俺が顔を上げる前に Curious を見て、手をつく前に黒い床を押した。

リンが一歩近づいて、止まった。

俺の影があいつの足首へ向かって伸びたからだ。

「来るな。」

俺が言った。

声が二度聞こえた。一つは口から出て、もう一つは首の後ろから遅れてついてきた。

リンは俺の横に座った。手が届かないだけの距離を残していた。

あいつが咳をした。手のひらに小さく血がついた。ズボンに擦って拭いた。

Curious はそれも見た。

質問はしなかった。なぜ自分が呼ばれたのか、なぜ俺が The Man を食ったのか、なぜリンがまだ逃げないのか。

もう答えを見ているようだった。

リンはずっとジュースマシンの後ろを見ていた。黒い空間の遠くに立つ構造物。その間を通り過ぎていく形。本で読んだ文章が実際に続いている場所。

怖がっていた。

同時に、楽しんでいた。

「お前、何を呼んだのか分かってるのか。」

俺が訊いた。

リンはしばらく答えなかった。

「いや。」

「でも名前は知ってたんだろ。」

「名前だけ知ってた。」

「そっちのほうが危ないんじゃないのか。」

リンが口の端についた血を拭った。

「だから確かめるんだ。」

イカれた奴だった。

最後まで。

◆ ◆ ◆

Curious が手を叩いた。

音が大きすぎて、俺は体をすくめた。

「早い者勝ち。」

黒い空間の一方に⻑方形の光ができた。実験棟の地下二階、三番目の部屋の出入口だった。扉の向こうには灰色の壁と蛍光灯が見えた。

「どっちか一人は助けてあげる。」

Curious が扉のほうを指した。

「先に手を挙げたほう。」

少し考える顔をした。

「あ。次に会ったら、僕が直接引き裂いて殺すって条件で。」

リンの手が上がった。

速かった。

俺の影のほうが先に動いた。

俺がリンを見るより先に体の中のものがそちらへ伸びて、首の後ろが冷たくなった。

あ。

あのとき自分が何を考えたかは、今でも覚えている。

生きたいんだな。

リンが口を開いた。

「あいつを出して。」

Curious が目を細めた。

「君、手を挙げたよね。」

「先に挙げたほうが選べるんじゃないの?」

Curious が笑った。

「そういう意味で言ったんじゃないけど。」

「そういう意味じゃないとは言ってないよね。」

リンは俺を指した。

「俺はここに残る。」

「リン。」

俺は体を起こした。脚が自分のものではないように揺れた。

「何。」

「一緒に出ろ。」

「だめだ。」

「なんで。」

リンの目が光った。

怖くないからではなかった。

恐怖より先に、見たいものができてしまった目だった。

ジュースマシンの後ろ。Curious がいた場所。黒い空間の向こうに立つ構造物。本にしか書かれていなかった存在。

答え。

リンは俺を助けたがっていた。

それは嘘ではなかった。

同時に、ここに残りたがっていた。

それも嘘ではなかった。

リンにとって、その二つは同じ一つの選択だった。

「嫌だと言え。」

俺が言った。

「もう選んだ。」

「取り消せ。」

「俺が勝ったんだ。」

「何言ってんだよ。」

「今度は俺が選ぶ。」

俺はリンへ走った。

黒い床が後ろへ押し戻された。足は前へ出ているのに距離が縮まらなかった。ランニングマシンの上を走るように、脚だけが動いた。

俺は手を伸ばした。

リンも手を上げた。

指先の間には、同じ距離が残り続けた。

後ろから扉が俺を引っ張った。体が前へ飛んでいるようで、実際にはその場で空を掻いているだけだった。

「来るな。」

リンが言った。

「黙れ。」

「今度はお前が出ろ。」

「一緒に行こう。」

「嫌だ。」

リンが少しだけ笑った。

咳をして自分の音に驚いていた顔だった。パンをスープに浸して食っていた顔。謎には答えがあると言っていた、イカれた奴。

「明日から、俺がお前を見ててやる。」

床が畳まれた。

黒い構造物が後ろへ押しやられて、リンと Curious とジュースマシンが一枚の黒い面の中へ小さくなっていった。

俺は走り続けた。手を伸ばした。

リンの指が遠ざかった。

黒が消えた。

◆ ◆ ◆

蛍光灯が点いた。

俺は実験棟の地下二階、三番目の部屋の床へ転がり落ちた。

本棚があった。壁があった。天井もあった。

だが部屋の中にジュースマシンはなかった。リンもいなかった。The Man もいなかった。

部屋の反対側にあった椅子だけが倒れていた。

床の円形の紋様の中央には、黒い点が一つ残っていた。爪より小さかった。

俺はそれに触らなかった。

一時間が過ぎても The Man は戻らず、リンを連れていった実験も予定の時間を過ぎた。

廊下の外で機械音が鳴った。

エレベーターが降りてきていた。

階を知らせる数字が変わった。

地下一階。

地下二階。

扉が開いた。

カールソンの革靴が廊下の床を踏んだ。

片手には拳銃、もう片方には孤児院の食堂から持ってきたコーヒーカップがあった。

彼は廊下へ出ながらコーヒーを一口飲んだ。もう冷めた匂いが廊下まで広がった。

「The Man。」

返事はなかった。

「リン。」

返事はなかった。

カールソンはカップを床に置いて、拳銃を両手で構えた。

「出てこい。」

俺は三番目の部屋の隣の準備室へ身を隠した。

大きく息を吸わなかった。喉の奥で黒い糸が動く感覚がした。

カールソンが廊下を歩いた。彼は三番目の部屋の前で止まり、床の黒い点を見て、管理通路から落ちた金属の格子を見た。

そして俺のほうへ銃口を回した。

「そこにいるな。」

俺は動かなかった。

カールソンが一歩近づいた。

「出てくれば脚は撃たない。」

子供に言う言葉ではなかった。壊れた物を取り出す人間の口調だった。

俺はゆっくり隣の部屋へ動いた。運動靴の底が床を擦った。

カールソンの銃口が音を追ってきた。

彼は知っていた。俺が隠れていることも、どちらへ動いているかも。

正面から出れば死ぬ。

他に道はなかった。

俺は扉枠の後ろで身を低くした。

カールソンが近づいた。

三歩。

二歩。

一歩。

体の内側が冷たく沈んだ。

音が遠のいた。蛍光灯の電気音も、カールソンの息づかいも、自分の心臓の音も薄くなった。

壁についていた影が消えた。

自分の体の位置が、自分の感覚からも抜け落ちた。

カールソンの銃口が、俺の隠れた場所の横を通り過ぎた。

彼の目は俺を捉えなかった。

ちょうど一瞬だった。

俺は後ろから跳びかかり、腕をカールソンの首に掛けて、背中に乗って脚を腰に絡めた。

カールソンが体を屈めた。俺の背中が持ち上がって、壁に叩きつけられた。

息が抜けた。

腕は離さなかった。

カールソンは左手で俺の腕を引きながら、右手の銃を後ろへ折り曲げた。銃口が俺の脇腹を向いた。

俺は足を伸ばした。踵が彼の手首に当たった。

ダン。

弾は天井へ上がり、コンクリートの粉が顔に降りかかった。

拳銃が床を滑った。

カールソンは体を回して俺を壁に叩きつけた。腕がほどけた。俺は床に落ちた。

カールソンが俺の髪を掴んだ。顔が上へ持ち上がった。

拳が入った。唇が切れた。

二発目が来る前に、俺は指を伸ばした。

人差し指と中指がカールソンの左目に入った。

爪の下へ熱いものが押し寄せた。

カールソンが初めて叫んだ。

彼が俺を取り落とした。

拳銃は廊下の反対側にあった。

カールソンも見た。

二人が同時に動いた。俺は這い、カールソンは片手で目を押さえたまま体を投げて俺の足首を掴んだ。

俺は前へ倒れた。顎が床にぶつかった。

カールソンが俺の腰の上に乗った。肘が背骨を押した。

「じっとしてろ。」

彼が言った。

「お前も書類一枚で終わりだ。」

俺は手を伸ばした。

届かなかった。

体の内側で、別の腕を動かす感覚がした。

俺の右腕は床にあった。

それなのに、床の影は手より半握りぶん⻑く伸びた。

黒い指先が拳銃のグリップをかすめた。

拳銃が床を擦って少しだけ動いた。

それだけだった。

カールソンが音を聞いて顔を向けた隙に、俺は体をねじって彼の手の甲に噛みついた。

血の味がした。

カールソンが腕を引いた。

指先が拳銃のグリップに触れた。

冷たかった。思ったより重かった。

カールソンが俺の手首を掴もうとした。

俺は引き金を引いた。

ダン。

一発目が彼の肩を貫いた。カールソンの体が横へ揺れた。

彼は止まらなかった。片目から血を流しながら、俺の首へ手を伸ばした。

ダン。

二発目が胸に入った。

カールソンが膝をついた。

俺は立ち上がった。

銃口が震えた。

カールソンは俺を見上げた。

まだ俺が子供に見えている顔だった。

ヨーコがゴミ箱に捨てられたときの音が浮かんだ。

コトン。

消えた子供たちの椅子が一つずつ片づけられていった食堂。

〈親族へ引き渡し〉。

〈適応障害〉。

〈先天性疾患〉。

カールソンの書類。カールソンのコーヒー。腰に下げていた銃。

十二歳から十四歳までの時間が、引き金の中に入っていた。

ダン。

三発目がカールソンの顔を後ろへ反らせた。

彼は床に倒れた。

◆ ◆ ◆

銃声が止むと、廊下は静かすぎた。

蛍光灯の音がまた聞こえた。俺の息の音も戻ってきた。

影が足元へ遅れて這い寄ってきた。

カールソンは動かなかった。

俺が初めて殺した人間だった。

ヨーコを殺したのは The Man だった。

リンを連れていったのは Curious だった。

カールソンは、俺が殺した。

その違いは、あとになっても消えなかった。

俺は銃を下ろせなかった。指が引き金に貼りついていた。

しばらくしてから、やっと手が開いた。

拳銃が床に落ちた。

俺はカールソンのポケットを探った。

鍵。財布。携帯電話。

画面にはひびが入っていて、手についた血のせいでうまく反応しなかった。袖で拭いて番号を入力した。

呼び出し音が鳴った。

一回。

二回。

三回。

「警察です。どうされましたか?」

口が開かなかった。

喉にはまだ The Man の糸が引っかかっていた。

電話の向こうがもう一度訊いた。

「もしもし?」

俺は廊下の上のほうを見た。

孤児院の建物は山道の上にあった。その中の閉じられた扉。何も見ていないふりをしている子供たち。次の順番を待っている名前。

「ここ。」

声が掠れて、唾を飲み込んだ。

「子供がたくさん閉じ込められてます。」

相手が何かを訊いた。住所。名前。何があったのか。

俺は孤児院の玄関に書かれていた道路名を言った。

「実験してます。」

電話の向こうの声が速くなった。

俺はカールソンの鍵を拾った。

「助けてください。」

自分の名前は言わなかった。

電話は切らずに、廊下の床へ置いた。

カールソンの鍵で実験棟の階段の扉を開け、地上へ上がって倉庫の裏口を出た。

雨が強くなっていた。

◆ ◆ ◆

俺は山道を遡って孤児院へ戻った。

食堂にはカールソンの食べ残した夕飯が置かれていて、彼の空いた席の横には冷めたコーヒーの匂いが残っていた。

廊下には子供たちの部屋の扉が閉まっていた。

俺は鍵を一つずつ合わせてみた。

一つ目の扉。

二つ目の扉。

三つ目の扉。

残っている扉を順に開けていくと、鍵の外れる音が廊下に沿って続いた。

扉はすぐには開かなかった。

隙間から目が見えた。

誰も俺を呼ばなかった。

俺も出てこいとは言わなかった。

カールソンの鍵で玄関の内側の錠を外し、正門を開けた。

冷たい雨風が建物の中へ入ってきた。

扉は閉めなかった。

◆ ◆ ◆

俺は一人で山道を走った。

運動靴から水が跳ねた。口の中にはカールソンの血と The Man の匂いが一緒に残っていた。

体の中では、俺ではないものが走っていた。

影が俺の足より先に道を踏んだ。

息が切れそうで、道路の脇に止まった。

雨の中で、俺の影だけが後ろを向いていた。

孤児院のあるほうだった。

手を開くと、リンの名札があった。

いつ掴んだのかは覚えていない。

透明なビニールの端に、黒い雫が一つぶら下がっていた。

雨が手のひらを打った。

雫は揺れなかった。

落ちもしなかった。

◆ ◆ ◆

その日、俺は The Man を食った。

リンは地獄に残った。

カールソンは俺が初めて殺した人間になった。

そして、一滴はまだ落ちていない。