THE OUTSIDER

1

ROOFTOP SIGNAL

COORDINATE 1 / カベシンシティ

日本語版

TOJI

屋上から届く信号。

見てはいけない女。

水が先に来た。

体が上下に揺れた。潮の匂いが鼻に入って、どこかで低いエンジン音が鳴っていた。

船の上だった。

違った。

目を開けた。天井があった。波の代わりに、窓の外から車の音がした。

カベシンシティだった。

何年も、その順番が混ざる。眠りから覚めるのと、船の上で目を開けるのと、まだ何も開いていないのと。夢でもなかったし回想でもなかった。その二つの間のどこかで、毎回、数秒だけ足が引っかかる。

足が完全に引っかかった日は、必ず煙草を吸わないといけない。

屋上に上がった。ライターは三回目でついた。カルヴィンのもそうだった。残ったのはその癖だけだ。

煙が散る前に、向かいのビルの屋上に人が一人立っているのが見えた。

紙コップを持っていた。

その人がコップを落とした。

そのあと、両手が首に上がった。

ネクタイをゆるめる動きに見えた。暑い日だったから。

片手が下りた。

もう片方は下りなかった。

その人が後ろに下がった。一歩、二歩。歩いているというより、押されているように見えた。

手すりが膝の裏に当たった。

落ちるのに時間はかからなかった。

音は大きくなかった。人が消える音は、いつも思ったより軽い。

煙草が指の間で燃え尽きた。

下で人が集まる音がした。俺は手すりに腕をかけてそれを見下ろした。体の横に書類鞄が落ちていた。蓋が開いて中身がこぼれていた。万年筆。名刺。折りたたみ傘。

それから紙コップが一つ、歩道を転がって側溝の前で止まった。

中身はもう全部こぼれていた。

俺はそのコップをしばらく見ていた。

氷が全部溶けたコーヒーを持ち歩く人がいた。飲むためじゃなく、持ち歩くために。冷たいから、と言っていた人だ。

煙草を吸い終わる前に、下の階で電話が鳴った。

◆ ◆ ◆

その日の午後、事務所のドアが開いた。初めて見る顔だった。

この街ではみんなそうだ。

「ウェイン探偵」

ここで使っている名前だ。六年目になる。この街では死んだ人間でも金さえ払えば名前を一つ借りられるし、長く借りていればそれはただの名前になる。

「聞きましたよね。自殺なんですけど、どうにも解けなくて」

所轄の刑事だった。名前は後で知った。三十にもなっていなさそうで、ネクタイを今日初めて締めたみたいな締め方をしていた。

「誰に言われて来た」

「うちの課長です。こういうのはウェインさんに持っていけと」

「あの人まだクビになってないのか」

「......はい?」

「なんでもない」

「飛び降りるのは見た」

「直接ですか」

「向かいの屋上から」

刑事はそれを書き留めようとして止めた。

「じゃあ遺書の話も聞いてます?」

「いや」

「本人の筆跡じゃないそうです。でも本人の手で書いたのは間違いないと」

部屋が静かになった。

「両方ってことはないだろ」

「そこなんですよ」

刑事が書類鞄を机に載せた。死んだ人間のものだ。万年筆と名刺と折りたたみ傘が出てきた。最後に古い革の手帳が出てきた。

名刺を取った。

ブソ。貿易会社経理課の課長。四十二歳。借金なし、離婚歴なし、特記事項なし。

「平凡だな」

「だから変なんです」刑事が写真を一枚置いた。「同じ課の人間は静かで真面目だったと言うんですが、別のフロアの連中は——」刑事が手帳をめくった。「怖かった、と」

「どういう意味で」

「廊下ですれ違っても挨拶を返さないし、目も合わせなかったと。それが、ある日は別人みたいに笑いながら挨拶して回っていたそうです。同じフロア、同じ月に」

写真の顔は一つだった。

「あと、これは大した話じゃないんですけど」刑事がページをめくった。「隣の席の職員が言うには、ブソさんは数字を数えるとき左手で机を二回叩く癖があったと。十何年も」

「なんでそれが調書に入ってる」

「本人が先に言い出したそうです。死ぬ三日前に」

「なんて」

刑事がそのまま読んだ。

「最近これが出ないんだ、と」

俺は封筒を開けた。

手袋をして紙を出した。字は小さく整っていた。最初から最後まで揺れがなかった。

私はもう自分に耐えられない。

その一行だけだった。

紙を傾けて光に当てた。画の終わりが全部右上に抜けていた。右利きが書けば逆に抜ける。

名刺の裏のメモは右手の角度だった。

最後の一行だけが左手だった。

手帳をめくった。

前のほうには数字と日付があった。経理課長の字だ。

途中から傾きが逆になっていた。

後ろのほうは字ではなかった。同じ判子が手で、何百回も、ページが破れるまで押し描かれていた。三本の線が円の中で互いを避けていた。

俺はその判子を知っていた。

何年か前、ある運送書類の隅で見たことがある。その日、俺の隣には氷の全部溶けたコーヒーを持った人がいて、その人が先にその判子を指した。

これ、見たことあります?俺はそのときも、ないと嘘をついた。

今回は誰も訊かなかった。

「強迫症じゃないですかね」

刑事が言った。

「かもな」

前のほうの判子は歪んでいた。後ろに行くほどまっすぐになっていた。最後のページは定規で引いたようだった。

強迫はこういうふうには上達しない。

「現場に行こう」

「今からですか。写真だけでも——」

「写真は質問に答えない」

◆ ◆ ◆

ブソの家は見るものがなかった。ベッドは角が立っていて、クローゼットは色別に掛かっていて、食卓には埃一つなかった。

住んでいる人がいないからじゃなく、住んでいた人が自分を消したみたいに何もなかった。

二つだけ合っていなかった。

一つ目は冷蔵庫の横だった。会員カードが磁石で貼ってあった。笑っている象の絵。パチンコ店の名前。

「こういう人がこういう所に行きます?」

「合わないから訊いてるんだろ」

俺はそれをもらっていった。

二つ目はクローゼットの内側だった。

服を寄せると板が出てきた。鉛筆で引いた短い横線が何本もあった。子供の背を測る跡みたいだったが、向きが横だった。下から上ではなく、左から右へ上がっていた。

線ごとに日付があった。最初の線は一週間前。最後の線は昨日。

間隔は一日に指二本分くらいだった。

最後の線の横には、日付の代わりに短い線が一本引かれていた。もう行く先がないというみたいに。

「これ何ですか」

「わからん」

本当にわからなかった。

写真だけ撮った。

◆ ◆ ◆

店は午後三時から灯りをつけていた。玉の落ちる音、機械音、煙草の煙、そして誰も互いに口をきかない沈黙。

店長はカードを見るなり席を指した。

「あの端の台です。三年、ずっとあの席だけ」

俺はその席に座った。

椅子がまだその人の形に凹んでいる気がした。

隣の男に訊いた。

「ブソさんをご存じで」

五十代くらいの男だった。カーディガン。サンダル。右手でレバーを握り、左手の指先にコインを何枚か載せていた。

「ええ、毎日会う人ですよ」

そこで初めてこちらを向いた。黒いスーツ、その後ろに立っている見慣れない刑事。

「警察の方ですか」

「今日は見ました?」

「今日は見てないですね。昨日までは来てましたけど」男がレバーを引いた。「でも最近ちょっとおかしかったですよ。何かあったのかなと」

「何かって」

「わかりません。ただ人が少し変わって見えて。挨拶の仕方とかも」

そう言いながら、男の左手が台の縁を二回叩いた。

トン、トン。

数字を数える人間の手だった。

パチンコに数える数字はない。

俺はその手を見た。

右手は五十代だった。関節が太く、甲が荒れていて、爪が厚かった。

左手は違った。

爪が整っていた。甲にしみがなかった。人差し指の側面にボールペンだこが一つあったが、それは書類を扱う人間の手にできる場所だった。

二つの手が別々の人生を生きていた。

「いい手をしてますね」

俺が言った。

「え?」

「いえ」

男が笑った。そして左手の指先のコインを一枚弾いて手のひらに載せた。

指は滑らかに動いた。ただ、男が命じていない順番で動いているように見えた。

「一枚差し上げましょうか。その席、座ってるだけじゃもったいない」

「結構です」

「まあまあ、一回だけ回してみてくださいよ。ブソさんもいつもそこでやってたんだから」

俺はコインを受け取った。

理由は自分でもわからない。ただ手のほうが先に出た。

受け取るとき、男の指が触れた。

冷たかった。

ありふれたコインだった。表に店の名前、裏には何もない。

レバーを引いた。

玉が落ちた。

台の上のランプが全部一度に光った。サイレンに似た音が店を満たした。天井から紙テープが降りてきた。座っていた客が全員こちらを向いた。

大当たりだった。

所轄の刑事が入口のあたりでそれを見ていた。

表情がとてもゆっくり固まった。

「うわあ」

隣の男が二回拍手した。心から喜んでいる顔だった。

「運がいいですねえ」

店長が走ってきた。後ろから店員が二人ついてきた。一人はカメラを持っていた。

「お客様おめでとうございます。うちは今年二件目ですよ」

「結構です」

「写真一枚だけ——」

「警察の用で来てます」

警察ではないとは言わなかった。

「では書類だけでも」

店員がクリップボードを差し出した。高額当選確認書だった。氏名、連絡先、身分証番号。

俺はそれをしばらく見た。

「これ書かないとどうなります」

「お支払いができません」

所轄の刑事が寄ってきて、とても小さい声で言った。

「探偵さん、これ報告書に何て書くんですか」

「書かなきゃいい」

「僕が見ちゃったんですけど」

「じゃあ見なかったことにして」

「顧問が参考人の立場で——」

「まだ何も書いてないだろ」

台はまだ鳴っていた。玉はまだ落ちていた。死んだ人間の席で。

隣の男が紙テープを一本ちぎって俺に差し出した。

「こういうの、なかなか出ませんよ。いい日ですね」

俺はそれを受け取った。

◆ ◆ ◆

電話が鳴ったのはそのときだった。

所轄の刑事が出て、少し聞いてから俺に渡した。

「解剖の一次所見が出たんですが」

「言え」

「左腕がないんです」

機械の音が急に遠くなった。

「なんだって」

「左の腕がないそうです。肩からです」

「落ちたときに外れたんだろ」

「それが——」刑事が紙をめくる音がした。「現場になかったんです。半径三十メートル全部探したのにない。それに切断面に出血反応がほとんどないと」

「......」

「死んでから外れたようだけど、それにしては綺麗すぎると。刃物でもないそうです」

俺は朝を思い出した。

紙コップを落とした人。首に上がった両手。

片手が下りて、もう片方が下りなかった。

腕は二本だった。

落ちるとき、あの人は腕が二本あった。

「肩に何かあるか」

「どうしてわかるんですか」

「言え」

「横に引いた跡が何本もあるんですが、全部切れてます。腕のほうに続いていて途中で切れたみたいに。梯子みたいです」

クローゼットの内側の鉛筆の線を思い出した。

一日に指二本分。

ブソは狂っていたんじゃない。

測っていたんだ。

刃を当ててみればわかったはずだ。痛いところまでが自分の腕で、痛くないところからは違う。

その境目が毎日少しずつ上に上がって、そのたびにクローゼットに線を引いた。

最初の線は手首。最後の線は肩。

何かが手首から肩へ上がってきていて、ブソはそれがいつ着くのかを数えていた。

この街で一番真面目な捜査官は経理課長だった。

俺は電話を切って隣の席を見た。

男はまだレバーを引いていた。

トン、トン。

十何年ものの癖だった。

ブソの癖だった。

「今日はここまでにしましょう」俺は所轄の刑事に言った。「みんな帰らせて」

「僕にそんな権限は——」

「ある。使ったことがないだけだ」

刑事は少し俺を見てから無線を取った。

「探偵さんは」

「俺はもう少しやってから行く」

「......もう当たったじゃないですか」

「ああ」

◆ ◆ ◆

二時間ほど座っていた。コインを入れ、レバーを引き、何も当たらなかった。

そのうちボタンを押したのに、押した感覚が返ってこなかった。

左手の人差し指だった。

もう一度押した。今度は来た。半拍遅れて。

袖をまくった。腕には何もなかった。跡も、腫れも、何も。

何もないほうが悪かった。確かめる方法がない。骨の中は覗けないし、訊く相手もいない。

ブソも最初はこうだったはずだ。何もないから、何でもないと思ったはずだ。

隣の席から音がした。

トン、トン。

◆ ◆ ◆

男が席を片付けて立ったのは九時を過ぎてからだった。

古いアパートの二階。鍵の音。ドアが開いて、閉まる角度に動いた。

隙間に手を入れた。

ドアがガコッと止まった。

「ご一緒しますよ」

男が声を上げた。悲鳴にしては短く、しゃっくりにしては長い音だった。

「うわっ、びっくりした——」

「失礼しました」

「いや、人を後ろから——」

「静かに歩くもので」

「心臓止まるかと思いましたよ」

「大丈夫ですか」

「大丈夫じゃないでしょ」

「そうだと思いました」

俺たちはドアを挟んで互いに謝った。俺の手はまだドア枠に挟まっていた。

男が息を整えてドアを開けきった。

「......どうぞ」

「失礼します」

「靴はそのままでも——」

「いえ、脱ぎます」

「スリッパ出しましょうか」

「結構です」

「足が冷えますよ」

「......ではお願いします」

スリッパは踵が半分はみ出した。

◆ ◆ ◆

家の中は長く煮出した茶の匂いがした。

やかんが火にかかった。湯呑みが二つ出てきた。一つは縁が欠けていた。男は欠けたほうを自分の前に置いた。

「お客さんには無事なほうをお出ししないと」

「習慣ですか」

「癖ですよ。古い」

せんべいの皿が出てきた。男がそれをこちらへ押した。

「どうぞ。湿気ってますけど」

「......いただきます」

「湿気ってても食べるんですね」

「湿気ってるのが好きなんです」

俺は座った。茶は熱くて、思ったよりうまかった。

「いい茶ですね」

「十箱買うと一箱おまけなんですよ」

「たくさん買われるんですね」

「長く飲んでるので」

男が自分の湯呑みを両手で包んだ。左手が湯呑みの表面で少しだけ滑った。水気のせいじゃなかった。

「博打、打ってましたね」

男の手が止まった。

「どうしてわかるんですか」

「湯呑みの置き方です。いいほうを相手に出すんじゃなくて、悪いほうを自分の前に置いて始める。そうすれば相手が気楽に座るから」

男が笑った。

「探偵さんもやってたんですね」

「見るのは少し」

「見るのが一番よく上達しますよ」

「名前、ありましたよね」

「ありましたね」

「今は」

「ないです」

俺は左手をテーブルに置いた。

男の視線が一度そこへ行って戻った。

「左腕、元からご自分のですか」

やかんの音だけがした。

「......いいえ」

「元のは」

「取られました」

「どこで」

男が湯呑みを置いた。

「場でね」

「負けたんですね」

「いえ。勝ってました」

「じゃあ」

「底出しがバレましてね」

俺は何も言わなかった。

「三十年やってたんですよ」男が笑った。「あの日が初めてでした」

「誰に」

「その日初めて見た人です。隣に座ってた客でしたよ。何をやってる人かは、ずっと後になってから聞きました」

「名前は」

「カツラ、と。姓なのか名なのかも知りません」

「怒られましたか」

「いいえ」

男がせんべいの半分を皿に置いた。

「それが一番怖かった。場が全部終わってから、静かに一つだけ訊いてくるんです」

「なんて」

「左手でしたね、って」

茶が冷めていく音がした。

「どこの場でした」

「カジノです。奥の部屋のほう」

「何人いました」

「私を入れて四人」

「あとは」

「一人は男で、ほとんど寝てましたね。一人は女でした。ずっと負けてるのに立たないんですよ」

「カツラ以外は客だったわけですね」

「......客だと思ってました」

「腕を取られてるとき、その人たちは何を」

「......何も」

「止めもせず」

「あそこでそういうのを止める人はいませんよ」

男が湯呑みを持ち上げて、空なのを見て置いた。

「......でも誰も驚かないんです。それが一番おかしかった」

カジノの奥の部屋で人の腕が落ちるのに誰も驚かない。

どういう場だったのかは、だいたい見当がついた。

それ以上は訊かなかった。

「腕を取られるとき、手に何を持ってました」

男が俺を見た。

初めて、笑いが完全に消えた顔だった。

「......コインを一枚」

「その日からできたわけだ」

「......」

「何ができたのかは訊きません」

男が右手で湯呑みを包んだ。左手は膝に置いたままだった。

「......腕を取り返したかっただけです。それだけですよ」

「それはあんたの腕じゃないでしょう」

「......」

「それはブソさんの腕でしょう」

男がカーディガンの袖を少しだけ下ろした。

見えないようにする人の手つきだった。

「今朝ついたんですね」

袖がもう少し下りた。

「よく動いてましたよ。やたら余計なことをするだけで」

男が左手を膝の下に下ろした。

「......しばらくはそうなんです」

「何がです」

「手は持ち主を覚えてるんですよ」

やかんが沸きかけて止まった。

「一週間かかるんですよね」

男が目を伏せた。

「その手があんたの手になるまで。正確には、その手の感覚が全部あんたに移ってくるまで」

男が膝の上で手を握り直した。

「ブソさんは腕を切ってました。手首から肩まで、毎日」

「......」

「じゃあ、あんたも感じたわけだ」

やかんの蓋が鳴った。男がそれを押さえた。

「......何度か夜中に起きました」

「よく我慢しましたね」

「......」

「あの人も承知でやってたはずですよ。あんたにできることがそれしかなかったんだから」

男がせんべいのくずを指で集めた。集めて、何もしなかった。

「七日目にはね」

「......」

「首を絞めるんでしょう。その人の手で、その人の首を」

部屋がとても静かになった。

「自分でやらなくていいから楽でしょうね」

「......ブソさんは後ろに行ったんです」

「......」

「絞めると後ろに行くんですよ。ずっと。それで——」

男が言葉を止めた。

「手すりがあった」

「......はい」

「あんたが押したんじゃなくて」

「......絞めただけです」

「それが押したってことですよ」

男が湯呑みの取っ手を半回転させた。掴むところを探している人みたいだった。

「さっきからドアばかり見てますね」

「......」

「何時に来ます」

「......十一時です」

「何人」

「二人」

「何をやってる人たちで」

男が笑った。ごく短く。

「臓器に値をつける人たちです」

「......」

「私は金がないので。体で払うことにしたんですよ」

「あんたの体で」

男は俺を見なかった。

湯呑みから湯気が完全に抜けていた。

「体は体ですからね」

俺が言った。

「別にあんたのじゃなくてもいい」

「......」

「それでブソさんだった」

「......はい」

「ところがブソさんが一週間引っ張った」

男の右手が左手の手首を掴んだ。自分の手なのに、他人の手を掴むように。

「......計算の早い人でしたよ、あの人は」

◆ ◆ ◆

湯呑みが空になった。

男がやかんを取った。

「もう一杯どうぞ」

「結構です」

「まあまあ、もうお湯沸かしちゃったんで」

「......ではいただきます」

やかんがまた火にかかった。

時計は十時五十分だった。

「失礼します」

男が立った。

流しのほうへ二歩。体を半分回して、戻ってきた角度が最初より狭かった。

刃物は短かった。果物ナイフだった。

首だった。

腕を狙った手じゃなかった。今夜のうちに体が一つ要る人間の手だった。

俺は左腕を上げた。

刃先が前腕に刺さった。

熱くなかった。何の感覚もなかった。

男が柄を離せずに立っていた。

俺は右手で煙草をくわえた。

ライターは三回目でついた。

一口吸った。

男が俺を見た。驚いた顔だったが、驚いている方向がおかしかった。

怖がっているんじゃなく、時間を計算している顔だった。

玄関で音がした。

◆ ◆ ◆

ドアが開いた。

二人入ってきた。コートを着ていないし、手に何も持っていない。この手の仕事をする人間はたいてい何も持たない。持ってくると後で捨てないといけないから。

前に立った男が俺を見た。

腕にナイフが刺さったまま座って煙草を吸っている男を。

「......なんだこれ」

「お話ししてた方ですよ」おっさんが言った。声が さっきより半音高かった。「私の代わりに払う」

「生きたまま連れてこいっつっただろ」

「生きてます。見ればわかるでしょう」

俺は時計を見た。

十一時二分。

パチンコで大当たりが出たとき、この人は二回拍手して携帯を出していた。俺はそのとき玉を見ていた。

せんべいも、スリッパも、もう一杯も、そこからだった。

この家に入ってから交わした会話の全部が、十一時まで俺を座らせておくためのものだった。

老いた博打打ちが場を引き延ばすやり方だ。

「おっさん」

俺は呼んだ。

「......はい」

「よく引きましたね」

褒め言葉だった。半分は。

◆ ◆ ◆

前の男が二歩近づいた。

俺は煙草を左手に持ち替えた。ナイフの刺さっているほうだ。

そのあとは長くなかった。

右手の指二本が前の男の目に入った。

声が出る前に、足でおっさんを押しのけた。椅子が倒れて湯呑みが割れた。

後ろの男がポケットに手を入れた。入れるところまでは成功した。

首に腕をかけて三つ数えた。

三つで体が落ちた。

煙草はまだ燃えていた。

◆ ◆ ◆

部屋が静かになった。

やかんから湯の沸く音がした。さっき火にかけたのが今になって沸いていた。

俺はそれを止めた。

床に寝かせた男のシャツが肩からめくれ上がっていた。

背中の上のほう、広背筋の始まるあたりに小さいレタリングがあった。

BOHEM。

刺青にしては小さすぎた。人に見せるために入れたものじゃない。

自分がどこの所属かを忘れないために入れたように見えた。

「これは何だ」

気絶しているほうは答えられなかった。目をやられたほうに訊いても同じだっただろう。

そもそも知っていることがあるとも思えなかった。

こういうものを体に入れて歩くのはたいてい一番下だ。上は入れる必要がない。

それでも二人とも俺の顔を見た。

一人は目をやられ、一人は落ちたが、二人とも生きて出ていく。

六年静かに生きてきたのに、今夜で全部売れた。

おっさんが今日打った手は全部失敗した。

一つだけを除いて。

あの二人をこの部屋に座らせたこと。

それだけは俺には戻す方法がなかった。

◆ ◆ ◆

おっさんは倒れた椅子の横に座っていた。

立とうとしてスリッパが脱げた。履き直そうとしたが足が入らない。

三度目で諦めた。

俺は腕からナイフを抜いた。

右手を傷に入れた。骨に触れて、骨の上に乗っているものにも触れた。

抜き出した。

小さくて平たくて、血で滑るものが手のひらに上がってきた。袖で拭いた。

裏にスペードが一つあった。

傷が閉じ始めた。速く。肉がひとりでに縫われるように。

おっさんがそれを見た。

口が開いて閉じた。

「......クソが」

とても短く、とても汚い音だった。

そのあと、自分が吐いたものを拾い集めようとする人みたいに口をつぐんだ。

「......失礼しました」

「いえ」

本当に構わなかった。今夜この家で一番正直な言葉だったから。

◆ ◆ ◆

「今日何をしたか数えてみましょうか」

俺はコインを指で転がした。

「コインを一枚入れた。使えなかった」

「......」

「ナイフを使った。効かなかった」

「......」

「人を二人呼んだ」

床を見た。

「そこにいますね」

おっさんが壁に背をつけた。膝が立たなくて脚が適当に伸びていた。

カーディガンのボタンが一つちぎれていた。さっき足で押したときにちぎれたらしい。

三十年、場で他人の手を読んできた人間が、今は自分のスリッパも履けずにいた。

「これはお返しします」

ポケットからパチンコのコインを出した。店の名前が入ったありふれたやつだ。

おっさんが反射的に手を出した。

受け取った。

自分の手で。

「ありがとうございます」

そう言ってから手のひらを見た。

コインが二枚だった。

一枚は店の名前。下に敷かれた一枚は裏にスペード。

「こ、これ——」

「底出しは受け取るほうが気づかないのが面白いんでしょう」

おっさんがコインを見た。自分の能力だ。自分の体に入ったら何になるのかも知っていた。

何にもならなかった。

だからこれは脅しでも呪いでもない。

三十年ものの技を、今日初めて見た人間にそのままやり返されただけだ。

おっさんの顔がそれを全部通っていった。

最後に残ったのは怒りでも恐怖でもなく、場が終わって席を立つときの表情だった。

「......お上手ですね」

「見るのは少しやると言ったでしょう」

◆ ◆ ◆

「ブソさんの腕は置いていってください」

おっさんが左腕を見た。

「......どういう意味ですか」

「葬式を出さないといけないでしょう。腕一本なしで埋めるわけにいかない」

「......どうやって外すんですか、これを」

「それはあんたのほうが知ってるでしょう」

おっさんが右手で左肩に触れた。継ぎ目を探す手だった。

見つからなかった。

そのとき左手が動いた。

トン、トン。

膝の上で、二回。

おっさんがその手を見た。今度は膝の下に下ろせなかった。

「......これ何ですか」

「手は持ち主を覚えてるって言ったでしょう」

◆ ◆ ◆

警察が来るまで十一分かかった。

俺は外で煙草を吸っていた。

大島が階段を駆け上がろうとして、俺を見て止まった。

「中に三人いる」

「......三人ですか」

「二人は寝てて一人は座ってる」

「じゃ、じゃあ僕は——」

「座ってるほうは殺人だ。寝てるほうは殺人未遂。未遂のほうが急ぐぞ。起きるからな」

大島が無線を取って、置いて、また取った。

「探偵さん」

「ああ」

「これ......報告書に何て書くんですか」

「今日二回目だな」

「......」

「書くな。明日俺が行って書く」

◆ ◆ ◆

十分後におっさんが運び出された。

手錠は右手だけにかかっていた。左腕は規定上、別に処理しないといけないそうだ。

担架で運ばれながら、おっさんが俺を見た。

「探偵さん」

「はい」

「私、何年くらいもらいますかね」

「生きて出られるくらいには」

「......それ、いい話ですか」

「悪い話がまだ終わってないって意味ですよ」

おっさんが笑った。湿気ったせんべいの話をしていたときと同じ笑いだった。

「BOHEMからは何年くらいですかね」

俺が訊いた。

笑いがその場で消えた。

車のドアが閉まった。

◆ ◆ ◆

「名前は」

俺が訊いた。

大島が顔を上げた。

「......え?」

「あんただよ」

「大島です」

「大島」

「はい」

「大島」

「......はい」

「今回は依頼料はいらない」

「え?」

「大当たりで相殺しよう」

「......あれ書類書いてないじゃないですか」

「当たり前だろ書いたよ馬鹿」

「......」

大島が何かもう一つ訊こうとしてやめた。

それがこの仕事で一番先に覚えないといけないことだった。

◆ ◆ ◆

雨は事務所に戻ってから来た。

窓の外に雨脚が斜めに貼りついた。俺は机に座って顧問所見を書いた。

三行で足りた。

目撃者本人。墜落。自殺と判断。

落ちて死んだのは間違いない。俺が見たから。

そこまで書いてしばらくそのままだった。

毎日自分の腕に刃を当てて、どこまでがまだ自分の体かを確かめたこと。それが他人のものになっていく速さをクローゼットの内側に引いておいたこと。痛ませるために引き続けたこと。最後の日まで手を渡さなかったこと。

あの人が一週間引っ張って、相手の計画が崩れた。

入る欄がなかった。

書類は人がどう死んだかは書く。

どれだけ長く死ななかったかは書かない。

ペンを置いて立った。

階段は六階分だった。手すりが濡れていて、上がるほど雨音が大きくなった。

鉄の扉を押すと雨の匂いが先に入ってきた。

朝に立っていた場所にもう一度立った。

向かいの屋上が見えた。手すりはそのままだった。人が一人、膝の裏を押された場所なのに何の印もなかった。下にもなかった。テープもチョークの跡ももう片付けられていた。

手すりに腕をかけた。雨は止んではまた降るのを繰り返した。

ライターは今度も三回目でついた。

左の袖をまくった。何もなかった。

指先で手すりを二回押してみた。今度はちゃんと来た。

抜けていった場所には、もともと何の跡も残らない。

あの人は取り出せなくて、俺は取り出した。その差が腕だったのか体だったのかは今もわからない。

たぶん体だっただろう。

同じ角度からもう一度見た。

紙コップを落とした人。首に上がった両手。片手が下りて、もう片方が下りなかったこと。

あの人は飛び降りたんじゃない。

押されたのでもない。

一週間、自分の体から逃げ続けて、最後に足を置く場所がなかっただけだ。

朝、俺はあれをネクタイをゆるめる動きだと思った。

人が死ぬと、名前が先に消える。次が記録で、その次が顔だ。

癖が一番最後まで残る。

ときには他人の手に移り住んでまで。

ブソは腕一本ないまま埋められるだろう。

その腕は今ごろ留置場に座って、誰も見ていないときに膝を二回叩いているはずだ。

ポケットから紙テープが出てきた。パチンコ屋でもらったやつだ。雨に濡れて色がにじんでいた。

それを手すりに置いた。

風が持っていった。

◆ ◆ ◆

雨に濡れたコートを脱いで椅子の背にかけた。

二時間ほどして電話が鳴った。

俺は出なかった。

二回目のコールにも出なかった。