ジェイン・ウェインが死んだ日、俺は頭に五発もらった。
先に死んだのは彼女で、あとから起き上がったのは俺だった。
その年、俺は二十二だった。
刑事という仕事は自分に合っていなかった。
人を信じないといけなかった。
書類に書かれた時刻を信じないといけなかった。
殺した人間が殺したと認めるまで待たないといけなかったし、死んだ人間が死んだという事実も判が押されるまで終わらなかった。
それでも続けた。
十四のとき警察に電話して逃げてから、俺は制服とバッジが嫌いなくせにその内側を離れられなかった。
孤児院から消えた子供たちの名前は、ほとんど記録から消されていた。
記録を消した人間は生きていた。
俺はそれが気に入らなかった。
◆ ◆ ◆
ジェインは俺が殺人課に移ってきた初日から俺の席を知っていた。
机の上にはぬるくなった紙コップのコーヒーと、前日に差し戻された報告書が置いてあった。俺は椅子に座る前に窓を開けた。
煙草に火をつけると、向かいから透明なプラスチックカップが一つ滑ってきた。
氷が半分ほど溶けたアイスアメリカーノだった。
「灰皿は右です」
女が言った。
長い黒髪。
小さい顔。
自然に赤い目。
縦縞の入った白いシャツは襟元がゆるく開いていて、黒いインナーの上にほどけたネクタイが長く垂れていた。ブレザーはなかった。一度も着たことがない人間に見えた。
彼女は疲れて見えた。
その疲れまで整っていた。
「窓も右なんだが」
俺が言った。
ジェインは俺の煙草を見て、開いた窓を見て、また書類に目を落とした。
「じゃあ左は私の側ですね」
それが最初の会話だった。
◆ ◆ ◆
カルヴィンは十分後に入ってきた。
俺たち二人の上司だった。
きちんとしたシャツ。
細いネクタイ。
整えられた爪。
左目は右より少しだけ色が薄かった。
照明のせいだと思った。
カルヴィンは茶色い事件ファイルを俺の机に放った。
「六か月。四人」
一人目の被害者は保険鑑定士だった。
二人目は美術品運送会社の職員。
三人目は修復士。
四人目は名前のない競売仲介人。
互いに知り合いではなかった。死んだ場所も違った。
ホテルの客室。
地下駐車場。
修復作業室。
自宅の浴室。
共通点は一つだった。
四人とも死ぬ前に同じ絵に触れていた。
ファイルの中には古い肖像画の写真が入っていた。
黒い背景。
ひびの入った金色の額縁。
絵の中の男は白すぎて美しすぎた。左腕が顔の上半分を隠していて目はほとんど見えない。翼はなかったが、背後の闇が翼をもぎ取られた跡のように裂けていた。
写真の下には分類番号が押してあった。
UMO。
そして黒く塗り潰された所有機関名の末尾に、三文字だけ残っていた。
C.A.S.
「美術品の連続殺人ですか」
俺が訊いた。
「殺人事件だ」
カルヴィンが言った。
「美術品は証拠だ」
ジェインが写真を一枚抜いた。
「四人とも絵を見たあとに死んでますけど」
「だからお前が絵を見ることになった」
「私が死んだら事件が五件になりますね」
カルヴィンは笑わなかった。
「その前に終わらせろ」
彼はドアを閉めて出ていった。
◆ ◆ ◆
ジェインは写真をしばらく見ていた。
「いい顔してますね」
「死んだ四人よりか」
「死んだ人たちは写真がぼやけてるので」
一拍遅れて冗談だと気づいた。
ジェインは笑わなかった。
俺も笑わなかった。
その日から俺たちは一緒に動いた。
◆ ◆ ◆
事件は平凡な殺人で始まって平凡でない書類で終わった。
被害者たちの体に共通した傷はなかった。
一人は首が折れていた。
一人は心臓が止まっていた。
一人は浴槽で溺死した。
最後の被害者は部屋の中で血を全部失ったのに、床には一滴もなかった。
代わりに四人の体から同じものが出た。
髪より細い白い糸。
指の間。
舌の下。
心膜の内側。
法医官は繊維と書いた。
成分は確認されなかった。
標本は二日後に証拠保管室から消えた。
ジェインは消えた標本より、消えなかった判子を見ていた。
運送書類の隅に押された小さな印。
三本の線が円の中で互いを避けていた。
「これ、見たことあります?」
彼女が訊いた。
「ない」
嘘だった。
孤児院の帳簿の裏にも似た跡があった。当時はコーヒーのにじんだ染みだと思っていた。
ジェインは俺が嘘をついているのに気づいた。
それでも問い詰めなかった。
それがジェインのやり方だった。
人を追い込まない。
代わりに逃げる方向を先に塞いで待つ。
◆ ◆ ◆
最初に一緒に入った現場は閉鎖された印刷所だった。
死んだ競売仲介人が最後に通話した番号がそこで切れていた。建物の裏手の鉄扉には錠がかかっているように見えた。
ジェインが扉の前に立った。
「どいてください」
「なんで」
「開けます」
ジェインが一歩下がった。
靴の先が扉の真ん中を打った。
ガン。
扉は開かなかった。
代わりに黒い靴のヒールが抜けて廊下の端まで飛んでいった。
ジェインは片足が低いまま立っていた。
俺はノブをつかんだ。
回した。
扉が開いた。
ジェインが開いた扉と廊下の端のヒールを交互に見た。
「鍵かかってないんですね」
「そうだな」
「ドアが嘘をつきました」
俺はその場で声を出して笑った。
短かったが、実際に笑った。
ジェインは俺が笑っている間に廊下の端まで歩いてヒールを拾った。ポケットから証拠袋を出して中に入れた。
「何やってんだ」
「現場保存です」
笑いは扉の内側で終わった。
事務所の真ん中に男が座っていた。
椅子に縛られてもいなかった。机の前に正しく座ったまま、首だけが後ろに反っていた。
口は開いていた。
舌の下から白い糸が何本も出て、天井の換気口につながっていた。
俺は換気口を見上げた。
カバーの隙間に糸が入っていた。糸は張っていた。何かがあの中からこっちへ一度通って、通った跡だけが残ったように見えた。
ジェインは折れたヒールの入った証拠袋を床に置いた。
そのあとしばらく冗談を言わなかった。
数日後、彼女の机の下に黒いフラットシューズを一足置いた。
安くてヒールが低いやつだ。
ジェインは出勤するなり靴箱を開けた。
「これ刑事さんの趣味ですか」
「ドアが開く靴だ」
「ダサいですね」
彼女はその日からその靴を履いた。
捨てはしなかった。
◆ ◆ ◆
俺たちは毎晩、事件記録を突き合わせ直した。
ジェインは左手でアイスアメリカーノを持ち、右手で被害者の動線を描いた。氷が全部溶けても捨てなかった。
コーヒーを飲む人というより持ち歩く人みたいだった。
「なんでずっとそれ持ってるんだ」
「冷たいので」
「もう溶けてるだろ」
「じゃあ冷たさが減っただけです」
彼女はそう答えてから、しばらくしてカップを置いた。
そういう調子だった。
会話は短くて、意味はあとから来た。
一度、駅前で運送業者を張り込んだ。
深夜三時だった。
ジェインは助手席で目を閉じていた。
俺は煙草を出した。ライターがなかった。
「左のポケット」
ジェインが目を閉じたまま言った。
「誰のポケットだ」
「私のです」
彼女のシャツのポケットに俺のライターが入っていた。
「なんでお前が持ってる」
「毎回なくすので」
「盗んだんだろ」
「保管です」
「いつから」
「三件目からです」
「今何件目だ」
「数えたことないです」
ジェインはそのまま眠った。
対象がコンビニを出たときも起きなかった。
俺は一人で降りて彼を捕まえた。
手首に手錠をかけて後部座席に押し込んでから、ようやくジェインが目を開けた。
振り返った彼女と容疑者の目が合った。
「誰ですか?」
ジェインが訊いた。
容疑者のほうが先に答えた。
「捕まりました」
ジェインは俺を見た。
「なんで起こさなかったんですか」
「寝てただろ」
「職務怠慢ですね」
「お前がな」
容疑者が後部座席で笑った。
ジェインも笑った。
俺は笑わなかった。
翌朝、机の上に新しいライターが置いてあった。
俺が使っていたのと同じ形だった。
値札だけ剥がしていなかった。
◆ ◆ ◆
その運送業者は三日後に死んだ。
高架下で発見された。首が折れていて、所持品はそのままだった。
担当は俺たちじゃなかった。事故死で処理された。
その頃、他の死体も見た。
浴槽に座ったまま眠った女。
港の冷凍倉庫から氷と一緒に出てきた運転手。
全部、肖像画とは関係のない死として分類された。
死は事件を選ばずに割り込んでくる。
そういうこともあり得た。
俺は三件の死亡時刻を、うちの日誌の横に並べて見た。
運送業者は俺たちが彼を捕まえたあとだった。
浴槽の女はジェインがその名前を書類から見つけ出した翌日だった。
冷凍倉庫の運転手は俺たちが倉庫の入退記録を照会した日の夜だった。
三件とも、俺たちが先に行って、そのあとに死んでいる。
偶然が作る順番じゃない。
俺たちがどこを見ているか知っている人間がいて、俺たちより少し速かった。
そういう席は多くない。
俺はその日誌を引き出しに入れて鍵をかけた。
ジェインにも言わなかった。
言えばジェインが先に動く気がした。
今思えば、それが一つ目の馬鹿な真似だった。
◆ ◆ ◆
ジェインは肖像画が保管された隔離美術館によく行った。
美術館と呼ばれていたが一般客は入れなかった。港の金融財団が運営する灰色の建物だった。
一階は事務所。
二階は修復室。
三階は窓のない隔離展示室。
裏手の貨物通路は埠頭につながっていた。
絵は三階の突き当たりの部屋に掛かっていた。
ジェインは絵の前の椅子に座ってコーヒーを飲んだ。小さなスケッチブックを膝に置いて肖像画を写していた。
「捜査中に趣味か」
俺が訊いた。
「複写です」
「写真あるだろ」
「写真は絵が見ている方向をつかめないので」
「絵が何を見てるんだ」
「今は私」
俺は肖像画を見た。
絵の中の男の視線は腕の下に下りていた。どの角度から見ても目が合う安っぽい絵ではなかった。
むしろ誰も見ていない顔だった。
ところがジェインが椅子から立ち上がると、腕の下に隠れた目がほんの少し動いたように見えた。
ジェインのコーヒーから水滴が一つ落ちてスケッチブックににじんだ。
彼女は染みの上に鉛筆で線を足した。
「台無しだな」
「元からあった目です」
「今できたろ」
「絵だってそういうことありますよ」
ジェインはスケッチブックを閉じた。
その日エレベーターの中で彼女が俺の手首をつかんだ。
冷たい手だった。
エレベーターの鏡の中で、俺の影が一拍遅れて顔を上げた。
ジェインは鏡を見た。
「あなたは入るときより出ていくときのほうが静かですね」
「褒めてるのか」
「警告です」
手はすぐ離れた。
◆ ◆ ◆
ジェインが運送業者を五番目の欄に書き入れたのは、その次の週だった。
絵に触れたことのない人間だった。
ただし、絵に触れた人間たちを運んだ人間だった。
「上げても受け取ってもらえないぞ」
「受け取ってもらえないのも記録ですよ」
その日、上から事件を閉じろという命令が下りてきた。
個別死因確定。
証拠不十分。
事件間の関連性なし。
UMO写真は返還。
カルヴィンが事件ファイルを回収しに来た。
「ここまでだ」
ジェインが訊いた。
「何がですか」
「捜査だ」
「人が五人死んでます」
「四人だ」
カルヴィンはジェインの目を見て言った。
「五人目になりたくなければ、まず数え方を直せ」
部屋が静かになった。
俺は煙草を消した。
数え方。
四だと言ったのはカルヴィンだった。五だと言ったのはジェインだった。
七だと数えられるものは俺の引き出しの中にあった。
俺はその引き出しを開けなかった。
カルヴィンの左目が蛍光灯の下で白くにじんで戻った。
「ファイルを出せ」
ジェインは引き出しから茶色いファイルを取り出した。
素直に渡した。
カルヴィンが出ていってから、ファイルが軽くなっているのに気づいた。
中の肖像画の写真と運送記録が二枚抜けていた。
「どこ行った」
「返しました」
「誰に」
ジェインは溶けきったコーヒーを一口飲んだ。
「元あったところに」
「一人で行くな」
「それ、お願いですか」
俺は答えなかった。
彼女が俺を見た。
いつも疲れて見えた目が、その日は妙に澄んでいた。
リンが最後の夜に見せた目に似ていた。
もうどこまで行くか決めてある人間の目。
俺はその目を知っていた。
だから余計に嫌だった。
「ジェイン」
「わかってます」
「何が」
「あなたが嫌いな顔」
ジェインは空のカップをゴミ箱に投げた。
カップは縁に当たって跳ね上がり、彼女の手に戻ってきた。
今度は俺もすぐ笑った。
ジェインがカップを見下ろした。
「これ、入りたくないそうです」
「尊重してやれ」
彼女はカップをまた机の上に置いた。
「見なかったことにしてください」
「何を」
「全部」
ジェインは事務所を出ていった。
俺は追いかけようとして止まった。
机の上には彼女が履いていた黒いフラットシューズが一足あった。
その日はまたヒールのある靴を履いていた。
それが俺が最後に見た普通のジェインだった。
◆ ◆ ◆
深夜一時十七分。
携帯が一度鳴った。
発信者はジェイン。
文は二語だった。
chase me.
俺はすぐには動かなかった。
ジェインが残したスケッチブックを開いた。
最後のページに肖像画はなかった。
港の地図の上に、金色の額縁の形をした四角が一つ描かれていた。
右下にコーヒーの染み。
貨物エレベーターの番号。
03。
隔離美術館だった。
雨が降っていた。
正面のシャッターは半分下りていた。警備室は空で、入退記録の画面は深夜一時から止まっていた。
一階に血はなかった。
二階にもなかった。
三階へ上がる階段でアイスアメリカーノの蓋を一つ踏んだ。
黒いストローの跡が残っていた。
ジェインはコーヒーを飲みきっていない。
蓋だけ別に捨ててもいない。
わざと残した痕跡だった。
三階の灯りは全部消えていた。
突き当たりの部屋のドアだけが開いていた。
俺は銃を抜いて入った。
◆ ◆ ◆
最初に見えたのはカルヴィンの背中だった。
彼は床に片膝をついていた。
右腕はジェインの顔の上を横切っていた。前腕が額と目を覆い、手が後頭部を支えていた。
左手はジェインの顎をつかんでいた。
彼は力の抜けたジェインの顔を持ち上げて肖像画に合わせていた。
ジェインの唇と絵の中の男の唇が押しつけられていた。
遠くから見れば口づけに見えた。
近くで見れば死体を装置にはめ込む作業だった。
ジェインの首はカルヴィンの手に従って力なく反った。
白いシャツの胸には黒い穴が三つあった。
一つ。
二つ。
三つ。
三か所から流れた血がシャツの下で合わさり、黒いスカートと床へ下りていった。
胸は動かなかった。
腹も動かなかった。
右手は床に触れていた。
指に力はなかった。
赤い目は半分見えていたが焦点がなかった。
ジェインは死んでいた。
その事実が絵より先に見えた。
肖像画は壁から下ろされて黒い布の上に立てられていた。絵の中の男は腕で顔の上半分を隠していた。
カルヴィンの左目は完全に白かった。
ジェインの胸から白い糸が上がってきていた。
糸は傷を縫っていなかった。
血を止めてもいなかった。
体から抜け出ようとする何かを押さえていた。
カルヴィンの手首とジェインの銃創の間で糸が張りつめていた。
俺は引き金を引いた。
弾はカルヴィンの肩を狙った。
白い糸が一本、弾の側面を打った。
弾がねじれて額縁の角を割り、壁に埋まった。
カルヴィンは振り返らなかった。
◆ ◆ ◆
肖像画の黒い背景が動いた。
煙のように立ち上りはしなかった。
古い油絵から掻き出された濡れた絵具のように、黒い表面が粘って伸びた。
光が届く内側から、汚れて濃い緑が現れた。
錆びた金属に長く溜まった油のようだった。
深い海の底から浮かんできた薄い膜のようでもあった。
絵の中の男の唇から色が抜けた。
白かった顎と首の輪郭がぼやけた。
黒い背景の深さが浅くなった。
抜け出た色と形は、合わさった唇の間を通ってジェインの口の中に入っていった。
一部は鼻と喉に染み込んだ。
一部は白い糸の間をこじ開けて銃創の中に入った。
ジェインの皮膚の下に黒い線ができた。
黒の下で濁った緑が腐って動いた。
絵はジェインの中に入っていた。
方向は明らかだった。
肖像画の色が抜けている。
ジェインの体がそれを受け入れている。
それなのに、食われている側はジェインに見えた。
額縁の内側の深さがジェインの体より大きくなった。
ジェインのシルエットの縁が、絵のほうへ折れるように揺れた。
彼女の口が絵を吸い込む通路なのか、絵が彼女を食う口なのか区別がつかなかった。
ジェインは何かを飲み込んでいた。
なのに、飲み込んだものの内側からまたジェインを飲み込む感じがした。
白い糸と、濃い緑と黒い性質が反対方向へ引かれた。
一部の糸は黒く焼けた。
一部は色を失った。
残りは最後までジェインの体をつかんでいた。
俺は走った。
カルヴィンがジェインの顔を肖像画から引き離した。
力のない首が後ろに折れて床に落ちた。
ジェインの髪が血の上に広がった。
肖像画の中の男は消えていた。
黒い背景も深さを失っていた。
金色の額縁の中には濁ったキャンバスと薄い染みだけが残っていた。
ジェインはそのまま床にいた。
目を開けなかった。
息をしなかった。
俺を見なかった。
死んだ体の中に絵が入って、死んだ体はそのままだった。
◆ ◆ ◆
俺の左手が裂け始めた。
指が長くなった。
手のひらの下で黒い線が開いた。
影が俺の呼吸より先に前へ出た。
歯茎の内側から冷たい糸が上がってきた。
カルヴィンは俺の手を見た。
白い左目が一度細くなった。
彼は深くため息をついた。
俺の腕が完全に動く前だった。
最初の三発はほとんど一つの音だった。
一発目が頭を横にねじった。
二発目で蛍光灯が砕けた。
三発目でジェインのコーヒーの匂いが切れた。
体が床に着く前に、あと二発来た。
四発目で床が顔に上がってきた。
五発目はもう感覚のなくなった場所を確認した。
全部が、俺が腕を一度振るうより速かった。
床に倒れながらジェインを見た。
力のない指先。
白いシャツの上の三つの穴。
血に張りついた黒い髪。
溶けきった氷。
黒いフラットシューズ。
俺たちの間に落ちたライター。
中身の抜けた肖像画。
俺の血がジェインの血のほうへ流れた。
二つの色は区別がつかなかった。
ジェインが死んだ。
俺も死んだ。
カルヴィンの靴が俺たちの間で止まった。
彼は二人を見下ろさなかった。
処理する順番を確認した。
視界が閉じた。
◆ ◆ ◆
目を開けたときは金属の中だった。
完全に開いたわけじゃない。
光はなかった。
頭は開いているようだったし、口の中には血とセメントの粉が混ざっていた。腰から下は固まっていく重さに押さえつけられていた。
ドラム缶。
外で波の音がした。
ディーゼル。
油。
錆。
海水。
金属の床の下でエンジンが鳴った。
船はもう動いていた。
ジェインは消えなかった。
俺が最後に見た彼女は床に残っていた。
胸に三発もらって。
息をせずに。
絵を体の中に入れたまま。
そのあとカルヴィンが彼女をどう処理したのかは知らなかった。
カルヴィンの声が聞こえた。
「こんなことまで自分でやらないといけないのか」
ライターがついた。
煙草の煙がドラム缶の蓋の隙間からほんの少し入ってきた。
俺はジェインの名前を思った。
声は出なかった。
代わりに内側から別の声が答えた。
―死んだ。
The Manだった。
十四のあと一度もまともに喋ったことのないものが、俺の中で首をもたげた。
―二人とも死んだな。
『助けろ』
―誰を。
俺は答えなかった。
ジェインは死んだ。
助ける対象じゃなかった。
残っているのはカルヴィンだった。
『俺を』
The Manが笑う気配がした。
口のない笑いだった。
―三分。
『何』
―お前の体を三分借りる。ただ一度。時間は俺が選ぶ。
俺は答えなかった。
―今日はつないでやる。奪うのはあとだ。
ジェインの空のカップ。
折れたヒール。
黒いフラットシューズ。
俺のライター。
そして最後の一文。
chase me.
『持っていけ』
―契約した。
◆ ◆ ◆
ドラム缶の内側で金属が鳴った。
黒い棘が一本、側面を貫いた。
二本目。
三本目。
七本の棘が別々の方向へ弾け出た。
セメントが割れた。
鉄板が折れた。
ドラム缶の蓋が甲板の上へ飛んでいった。
そのうちの一本がカルヴィンの左肩を貫いた。
煙草が床に落ちた。
避けられる人間はいない。
死体の入った缶だったんだから。
死体を入れたのは本人だったんだから。
カルヴィンは悲鳴を上げなかった。
右手で棘をつかんで体から抜いた。
傷から血の代わりに白い液体が流れた。
「ミカエル」
カルヴィンが呼んだ。
自分の名前じゃなかった。
左目がまた白くなった。
◆ ◆ ◆
先に浮いたのは弾だった。
カルヴィンの肩と背中の後ろから白いものが一つずつ上がって空中で止まった。
指一節ほどの大きさで、先が丸く後ろが切られた形だった。
拳銃から抜いた弾頭を白く塗ったようだった。
十個。
二十個。
数えるのをやめた。
全部が銃口のように俺を向いた。
「針」
カルヴィンが言った。
命令なのか名前なのかわからなかった。
両方のようだった。
弾みたいな形をしたものを針と呼ぶ人間だった。
◆ ◆ ◆
一発目が来た。
俺は左に体をひねった。
耳の横を通り過ぎた。
当たっていないのに首が熱くなった。
通り過ぎた跡に白い線が残っていた。
髪より細くて、ごくかすかに光っていた。
俺の首の皮がその線に擦れていた。
線は二呼吸ほど空中に浮いてから消えた。
消えるまでは弾と同じものだった。
俺はそのとき、この能力の構造を理解した。
針と呼ぶ理由があった。
当てるのが目的じゃない。
通るのが目的だ。
針が通れば糸がついてくる。
避けた場所ごとに刃が一つずつ残るということだ。
四人の体の中から出た白い糸。
舌の下。
指の間。
心膜の内側。
全部、何かが一度通った跡だった。
肉の内側に残った線は消えないということも、そこでわかった。
同時に別のこともわかった。
あの男はそれを体から抜かなかった。
抜こうと思えば抜けたはずだ。
四か月そのままにしておいて、俺たちが標本を採取したあとになって保管室から片づけた。
バレる前に片づけるんじゃなく、バレてから片づける人間だった。
強い人間の、雑な生き方だった。
◆ ◆ ◆
カルヴィンが指を開いた。
二十が同時に来た。
◆ ◆ ◆
右腕から一本が出た。
前腕の外側の肉が縦に裂けて、黒いものが押し上がってきた。
三つを一度に弾いた。
四つは横へそらした。残りは通り過ぎた。
通った跡ごとに白い線が残った。
そこまで見てから気づいた。
俺がそれをやらせた覚えがないということに。
半拍の半分。
その間にあれはもう三つを弾いたあとだった。
それが何を意味するのか、そのときは考えなかった。
◆ ◆ ◆
甲板の上の空気が薄く引かれ始めた。
後ろへは跳ばなかった。
後ろへ行けば線が積み上がる。
一歩前へ出た。
次の一歩で右腕をくれてやった。
正確には腕の前側を線の中へ押し込んだ。
肉が裂けた。音は紙が裂ける音に近かった。
ほぼ同時に三本がさらに出た。
背中から二本。肩甲骨の下が内側から裂けた。
左の前腕から一本。
裂けた右腕はその直後にくっついた。
全部で四本だった。
人の背丈より長かった。根元は前腕ほど太く、先へ行くほど細くなって、最後の一握りが平たく潰れていた。
そこが刃だった。
関節はなかった。
折れるんじゃなく撓った。鞭が撓る撓り方じゃなく、水の中で腕を掻く撓り方だった。
裂ければくっついた。
くっついた場所をまた一つが通った。
またくっついた。
距離は六歩。
三歩で行った。
一歩目で甲板の鉄板が折れた。
二歩目でコンテナの角が肩に当たった。
三歩目でカルヴィンの前だった。
◆ ◆ ◆
そこからが長かった。
カルヴィンは退かなかった。
退けなかった。
後ろの空気に、自分でばら撒いた線が三重に敷かれていたから。
俺も同じだった。
俺たちは腕一本半ほどの距離でくっついていた。
その中で二十が回った。
正面から来るんじゃない。横から、後ろから、上から来た。通り過ぎてまた戻ってきた。
四本がそれを全部受けた。
右上から来たのを背中の一本目が弾いた。
左下を腕の一本が止めた。
戻ってきた二つを背中の二本目が一度で払った。
一つ弾くたびに二つのことが同時に起きた。
切れた場所がその場でくっついた。
そしてもう一本出た。
四本が八本になった。
八本が十数本になった。
数えるのをやめたのは二十を超えたあたりだった。
背中が裂け続けた。腕も、脇腹も、首の後ろも。
肉が開くのに痛くなかった。そっちのほうが変だった。
カルヴィンも増やした。
二十が四十になり、四十は数えられなかった。
腕一本半の距離の中で、黒いものと白いものが百単位で行き交った。
音は金属同士がぶつかる音じゃなかった。
濡れた紙を爪で引っ掻く音に近かった。
それが一つ一つ区別できなくなって、重なって一筋になった。
その音が途切れなかった。
一つ弾くたびに白い線が一本残った。
残った線が消える前に次の線が重なった。
カルヴィンの右手が動き続けた。指が一本折れるたびに軌道が変わった。
手を切ればよかった。
それは向こうもわかっていた。
五つが俺の右手首の前で互いに交差した。
線が五重に重なった。
そこへ手を入れれば手がなくなる。
俺は手を入れなかった。
刃を一本、足元の鉄板に刺して、それを軸に体ごと回した。
交差点の下をかすめて通った。
背中の皮が開いた。
くっついた。
◆ ◆ ◆
触手は細くならなかった。
最初に出たのも百本目に出たのも前腕ほど太かった。
押されているのはそっちじゃなかった。
重なった線は消えなかった。
空気が層になって固まっていた。
立てる場所が少しずつ減った。
肩を下げた。
膝を折った。
その次は折るところがなかった。
勝っているのに狭くなっていた。
長くはやれなかった。
◆ ◆ ◆
カルヴィンの顔にはまだ表情がなかった。
人間のほうの顔じゃなかった。
仕事を処理する顔だった。
俺はその顔を一発殴りたかった。
そうしながら見ていた。
肩の傷から出た白い液体が空中に上がって、毎回胸へ戻った。
外れたものもそうだった。軌道を大きく回って結局同じほうへ付いた。
左目。
手首。
肩。
全部が一か所へつながっていた。
心臓の裏だった。
◆ ◆ ◆
正面から一つ来た。
背中の一本目で横から打った。
正確に当てずに側面を斜めに押した。
弾が向きを変えながら刃の先を押し返した。
その押し返された力が肩まで上がってきた。
俺はそれを止めなかった。
そこに乗せた。
刃が押された方向のまま上へ跳ね上がって、カルヴィンの首を通った。
触れた。
深くはなかった。
首の横に一握りほどの線ができて、そこから白い液体が襟へ下りていった。
カルヴィンが初めて半歩下がった。
表情ができた。
驚いた顔だった。
殺した人間が目の前に立っているのを、今になって確認した顔だった。
◆ ◆ ◆
空中の針が全部止まった。
向きを変えて一点へ集まり始めた。
カルヴィンの右手の前だった。
今まではばら撒いていた。
今は集めていた。
あれが完成すればコンテナ十数個ごと貫かれる。
「死んだものは死んでいるべきだろう」
声が二重だった。
The Manが内側で言った。
―取っ手だ。
俺は待たなかった。
俺たちの間に線が何重に敷かれたか数えられなかった。
下手をすれば首から先に落ちる。
集まっていたものが向きを取り戻す前に、左手を肋骨の下へ押し込んだ。
心臓を狙った。
親指が心臓に触れた。
ところが薬指の先に別のものが引っかかった。
それより奥だった。
人の骨と形が違った。
小さくて平たい翼。
そこで変えた。
心臓は人間の急所だ。
これは人間じゃなかった。
親指は心臓に乗せたまま、手を一節ぶん深く押し込んだ。
薬指が翼の下に掛かった。
小指をその隙間へ差し込んだ。
カルヴィンの左目が大きく開いた。
「待——」
かき回した。
骨が折れる音じゃなかった。
濡れたものが内側で潰れる音だった。
潰れたものを薬指に掛けて引きちぎった。
◆ ◆ ◆
空中の針が一度に落ちた。
落ちながら線を残さなかった。
カルヴィンが二歩下がった。
胸を押さえたまま俺を見た。
残っていたのは人間のほうの顔だった。
「お前、何を——」
一度で終わっていた。
俺は一度で終わらせなかった。
刃が一本、肩を通り首を通って甲板まで行った。
二本目が反対側から来た。
三本目からは数えなかった。
カルヴィンの体が甲板に横たわる前に、形が何度か変わった。
最後は膝で押さえた。
胸が折れる音がした。
そのあとも少し押した。
必要だったからじゃない。
◆ ◆ ◆
触手が一本ずつ体へ入っていった。
入った場所が順番に閉じた。背中も、腕も、脇腹も、首の後ろも。
閉じてからやっと痛み始めた。
俺はしばらく動けなかった。
顔から落ちた血が靴の先を濡らした。
線が一本、顔を通っていた。
左の眉の上から始まって頬を通り、口の下を掠って、右の顎の下まで。
あと一寸深ければ左目と首が一緒に切れていた。
いつ掠ったのかは覚えていない。
百を超える線のうちのどれだったのかもわからなかった。
戦闘中に痛くない傷は、あとでまとめて来る。
The Manが言った。
―まだ使っていない。
三分。
その権利はそのまま残っていた。
それがその日、The Manが俺に言った最後の言葉だった。
そのあと六年間、それは一度も先に話しかけてこなかった。
◆ ◆ ◆
俺の手には砕けた翼の骨の欠片が握られていた。
白くて薄い線が、折れた先でまだ動いていた。
俺はそれを手すりの外へ投げた。
落ちるのは見なかった。
甲板には白い弾が散らばっていた。
それを針と呼ぶ人間はもういなかった。
全部が光を失っていた。
一つだけ違った。
カルヴィンの胸の下に刺さった一つが、まだ白く残っていた。
俺はそれをしばらく見た。
抜かなかった。
抜いてどこに置くか決めるより、そのままにしておくほうが楽だった。
それが二つ目の馬鹿な真似だった。
◆ ◆ ◆
カルヴィンの首に指を当てた。
脈はなかった。
左手一本で彼の腰をつかんだ。
体を持ち上げて左肩に担いだ。
思ったより軽かった。
「クソ......」
甲板の真ん中には、俺が入っていたドラム缶が縦に立っていた。
内側には割れたセメントが半分ほど残っていた。
俺はカルヴィンを頭から入れた。
頭がセメントの中に入った。
肩が入口に引っかかった。
一度押した。
骨が折り畳まれる音がした。
脚と靴が外で少し揺れた。
もう一度押した。
カルヴィンはドラム缶の中に消えた。
◆ ◆ ◆
俺は船尾側の手すりまで二歩行った。
船は港を出ようとしていた。
向かいの砂浜が遠ざかった。
雨に濡れた砂が街の灯りを薄く反射していた。
その後ろに低い建物と倉庫、まだ消えていない道路の灯りが続いた。
隔離美術館がどの建物なのか、もう見分けられなかった。
海は灰色と濃い青の間にあった。
カルヴィンの煙草の箱が甲板に落ちていた。
俺は一本出してくわえた。
火は三回目でついた。
煙が風に沿って横へ流れた。
ジェインの折れたヒールが浮かんだ。
俺が買ってやった安いフラットシューズ。
車に置いていった半分溶けたコーヒー。
俺のポケットになかったライター。
一度直してやったネクタイ。
ゴミ箱から手に戻ってきた空のカップ。
肖像画の唇に押しつけられた死んだ唇。
白いシャツの上の三発の銃創。
血に濡れた床。
chase me.
ジェインは死んだ。
俺は見た。
絵は彼女の中に入った。
それなのに、最後まで食われている側はジェインに見えた。
カルヴィンがその体をそのあとどうしたのかは知らなかった。
調べる方法も今はなかった。
◆ ◆ ◆
煙草が半分燃えたときに思い出した。
引き出しに入れて鍵をかけた日誌。
運送業者。浴槽の女。冷凍倉庫の運転手。
俺たちが先に行って、そのあとに死んだ三人。
四人じゃなく七人だった。
俺はドラム缶のほうを見た。
「七人もお前がやったのかって、訊いてなかったな」
答えはなかった。
訊けるときに訊かなかった。
それが三つ目だった。
俺は煙草を吸い終えた。
体を回さなかった。
右の後ろにドラム缶が立っていた。
左足を右の後ろへ畳んだ。
かかとでドラム缶の側面を軽く打った。
コトン。
ドラム缶は甲板の上を転がらなかった。
その場で跳ね上がった。
船尾の手すりを越えて黒い海の上へ飛んでいった。
しばらくして水に落ちた。
音は大きくなかった。
人が消える音は、いつも思ったより軽い。
俺はドラム缶が沈むのを見なかった。
視線は遠ざかる街と、その後ろの水平線に残っていた。
◆ ◆ ◆
船室に降りてカルヴィンの携帯と事件ファイルを探した。
俺の名前が押された処理報告書があった。
死亡。
身元確認完了。
遺体流失。
作成時刻は俺が撃たれる前だった。
書類はいつも人より先に死んだ。
ジェインの名前はなかった。
死亡者名簿にも。
行方不明者名簿にも。
人事記録にも。
最初から警察署に勤めたことのない人間のように空白だった。
名前が消された人間の名簿は俺には見慣れていた。
十四のとき、その名簿から自分の名前を見つけられなかったことがある。
俺の携帯には最後のメッセージが残っていた。
chase me.
俺は削除しなかった。
航路表を開いた。
次の寄港地はカベシンシティだった。
夜が明ける頃、海は灰色だった。
海岸線はもう遠ざかっていた。
ジェインは死んだ。
俺も同じだった。
違いがあるとすれば、彼女は陸に残り、俺はまだ動いているということだけだった。
カベシンシティは死んだ人間の名前を訊かなかった。
訊かれていたら、俺は彼女の姓を言っただろう。
誰も訊かなかったので、俺のほうから先に言った。